の句の上に無造作に○がついたり直《ちょく》が這入ったりするのを一層不思議そうな眼でながめていたに相違ない。
「子規という男は何でも自分が先生のような積りで居る男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだから Very good と書いて返した。」と言ってその後よく人に話して笑っていた。
 後年になって漱石氏の鋭い方面はその鋒先《ほこさき》をだんだんと嚢《ふくろ》の外に表わし始めたが、その頃の――殊に若年であった私の目に映じた――漱石氏は非常に温厚な紳士的態度の長者らしい風格の人のように思われた。自然子規居士の親分気質な動作に対しても別に反抗するような態度もなく、俳句の如きは愛松、極堂、霽月らの諸君に伍《ご》して子規居士の傘下《さんか》に集まった一人として別に意に介する所もなかったのであろう。のみならず、この病友をいつくしみ憐れむような友情と、その親分然たる態度に七分の同感と三分の滑稽《こっけい》味を見出す興味とで、格別|厭《いや》な心持もしないでその階下に湧き出した一箇の世界を眺めていたものであろう。そうして朝暮出入している愛松、極堂らの諸君とは軌道を異《こと》にして、多くの時間は二階に閉籠《とじこも》って学校の先生としての忠実なる準備と英文学者としての真面目な修養とに力を注いでいたのである。後年『坊っちゃん』の一篇が出るようになってから、この松山中学時代の漱石氏の不平は俄《にわ》かに明るみに取り出された傾きがあるが、当時の氏にはたといそれらの不愉快な心持が内心にあったとしても、それらの不愉快には打勝ちつつ、どこまでも真面目に、学者として教師として進んで行く考であったことは間違いない。大学を中途で退学して新聞社に這入って不治の病気になって居た子規居士と、真直に大学を出て中学校の先生としていそしみつつあった漱石氏とは、よほど色彩の変った世界を、階子段一つ隔てた上と下とに現出せしめて居った訳である。然《しか》しそれがまた後年になってある点まで似《にか》よった境界に身を置いて共に明治大正の文壇の一人者として立つようになったことも興味あることである。
 子規居士がこの家
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