はつくのである。子規居士は須磨の保養院などにいた時と同じく蒲団《ふとん》は畳の上に敷き流しにしておいてくたびれるとその上に横《よこた》わり、気持がいいと蒲団の上に起き上ったり、縁ばな位までは出たりなどして健康の回復を待ちつつあったのであろう。それから須磨の保養院に居る頃から筆を執りつつあった「俳人蕪村」の稿を継ぎ、更に「俳諧大要」の稿を起すようになったのであった。子規居士が帰ったと聞いてから、折節帰省中であった下村|為山《いざん》君を中心として俳句の研究をしつつあった中村|愛松《あいしょう》、野間|叟柳《そうりゅう》、伴狸伴《ばんりはん》、大島|梅屋《ばいおく》らの小学教員団体が早速居士の病床につめかけて俳句の話を聞くことになった。居士は従軍の結果が一層健康を損じ、最早《もは》や一図に俳句にたずさわるよりほか、仕方がないとあきらめをつけ、そうでなくっても根柢からこの短い詩の研究に深い注意を払っていたのが、更に勇猛心を振い興して斯道《しどう》に力を尽そうと考えていた矢先であったので、それらの教員団体、並びに旧友であるところの柳原極堂、村上霽月、御手洗不迷《みたらいふめい》らの諸君を病床に引きつけて、殆んど休む間もなしに句作をしたり批評をしたりしたものらしい。その間漱石氏は主として二階にあって、朝起きると洋服を着《つけ》て学校に出かけ、帰って来ると洋服を脱いで翌日の講義の下調べをして、二階から下りて来ることは少なかったが、それでも時々は下りて来てそれらの俳人諸君の間に交って一緒に句作することもあった。子規居士はやはり他の諸君の句の上に○をつけるのと同じように漱石氏の句の上にも○をつけた。ただ他の人は「お前」とか「あし」とか松山言葉を使って呼び合っている中に、漱石氏と居士との間だけには君とか僕とかいう言葉を用いていた位の相違であった。漱石氏はこれらの松山言葉を聞くことや、足を投げ出したり頬杖をついたりして無作法な様子をして句作に耽《ふけ》っている一座の様子を流し目に見てあまりいい心持もしなかったろうが、その病友の病を忘れているかの如き奮闘的な態度には敬意を払っていたに相違ない。殊に漱石氏は子規居士が親分らしい態度をして無造作に人々の句の上に○をつけたり批評を加えたりするのを、感服と驚きと可笑味《おかしみ》とを混ぜたような眼つきをして見ていたに相違ない。殊《こと》にまた自分
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