らいにて、日本書はふるい漢文か詩集のようなもの、然らざれば外国の小六《こむ》ずかしきものを手に致し候。それがため文海の動静には不案内に候。その方却ってうれしく候。新聞も実は見たくなき気持致候。草々頓首。
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   十一月二十一日[#地から3字上げ]金之助
     虚子様
      ○
大正二年六月十日(封書)
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 啓。「相模のちり」御採用被下候由にて難有存候。あれは未知の人なれど折角故ただ小生の寸志にてしか取計いたるまでに候。紹介様のもの御入用の由故わずかばかり認め申候。近頃一向御目にかからず、健康も時々御違和の由承り居候えども、疾に御全快の事とのみ存居候いしに、いまだに御粥《おかゆ》と玉子にて御凌ぎは定めて御難渋の事と御察し申上候。それではひとの病気処にては無之、御見舞状を受けて却って痛み入る次第に候。『ホトトギス』は漸次御発展の由これまた恭賀。小生も何か差上度所存だけはとうから有之候えども身体やら心やらその他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るようの傾《かたむき》、甚だ無申訳候。四十を越し候と人間も碌な事には出合わず、ただこうしたいと思うのみにて何事もそう出来し事無之、耄碌《もうろく》の境地も眼前に相見え情なく候。御能へは多分参られる事と存居候。万事はその節。匆々頓首。
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   六月十日[#地から3字上げ]金之助
     虚子先生座右
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   京都で会った漱石氏

 私は別項「漱石氏と私」中に掲げた漱石氏の手紙を点検している間に明治四十年の春漱石氏と京都で出会った時の事を昨日の如く目前に髣髴《ほうふつ》した。これは「漱石氏と私」中に記載してもいい事であるけれども、手紙の分量の多いために、一々その聯想を書く事は煩《わずらわ》しいので、そこにはこれを省き、別に一章としてその当時の回想を書き止めて見ようと思い立ったのである。
 それは春雨の降っている日であった。七条の停車場《すてーしょん》から乗った俥《くるま》は三条の万屋の前に梶棒を下ろした。幌《ほろ》の中で聞いている京都の春雨の音は静かであったが、それでも賑やかな通に出ると俥の轍《わだち》の音が騒々しく行き交《まじ》ってやわらかみのある京都言葉も、慌《あわただ》しげに強く響いて来るのであった。今俥の幌の中からぬけ出て茶屋の
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