であった。この余の煩悶を碧梧桐君が居士に通告して遣った時に居士はあまり薬が利き過ぎたと思ったのか、今度は大に余を激励して来た。それに対して余は「飯が食えぬ」という文章を作って解嘲《かいちょう》したこともあった。
 中学四年までは学校の試験の成績というような事を大いなる興味を持っていた余は、反動的に極端に学校生活というものを憎むようになった。そこで居士はその頃の居士自身の傾向には反対した事をよく認《したた》めて余に送ってくれた事もあった。けれどもその余所行《よそゆ》きの忠告の文句の裡《うち》に余は居士自身の煩悶を体読せずにはおかなかった。居士の煩悶というのは、やはり学校生活を中止して文学に立とうという一つのあせり[#「あせり」に傍点]であった。もっとも居士はその二、三年前咯血をしてから、功を急ぐ念が強くなっていた。かくして居士はその後両三年ならずして退学を決行したのであった。余もそれに遅るる一、二年にしてまた退学を決行した。「石橋《しゃっきょう》」という能がある。親獅子は舞台に出て舞い、子獅子は橋がかりで舞うのであるが、ちょっと余と子規居士との関係はそういったような状態であった。居士はまだ舞ってはいかぬいかぬと言いながら舞台で舞い始めたので、余は堪《こら》えずに橋がかりで舞い出したのであった。碧梧桐君もその頃は殆ど余と同身一体のような有様であった。性格の全く異った二人は常に同一行動を取っていた。橋がかりの子獅子は二匹であったのである。
 さて余は中学を三月に卒業して九月に京都の第三高等学校に入学することになった。京都遊学が近づいて来るに従ってさすがに嫁入り前の娘のような慌だしい心持がせぬでもなかった。自然その頃は子規居士との手紙の往復よりも、京都の学校に在《あ》る先輩との手紙の往復の方が多くなった。いよいよ京都に行ってからも下宿の番地を知らしたきり位であまり居士とは通信もしなかったように思う。一段高い学府に籍を置いたという厳粛な感じに支配せられて燈下に膝を折って下読みにいそしむ事も多く、同時にまた松山の狭い天地を出て初めて大きな都に出たという満足の下にその千年前の旧都を飽きもせずに彷徨《うろつ》き廻る日も多かった。歴史があり、物語があり、繁華がある。それらは暫《しばら》くの間若い心を躍らせて常に憧憬の衢《ちまた》であった東都の空を想う念も暫くの間は薄らいでいた。
 その時突然机上に落ちた一個の郵便は暫く静まっていた余の心をまたさわ立たしめずにはおかなかった。それは『俳諧《はいかい》』と題する雑誌であって、居士が伊藤|松宇《しょうう》、片山|桃雨《とうう》諸氏と共に刊行したものであって、その中には余が居士に送った手紙の端に認めておいた句が一、二句載っていた。碧梧桐君の句も載っていた。――碧梧桐君は一年休学したために中学の卒業は余よりも一年遅れその頃まだ京都へは来ていなかったのである。そうして子規居士との音信の稀《まれ》であったにかかわらず余と碧梧桐君との間の書信の往復は極めて頻繁《ひんぱん》であった。それには文学以外の記事も多かった。――自分の作句が活字となって現われたのは実にこの『俳諧』を以て初めとする。そうして我らの句と共に並べられた名前に鳴雪《めいせつ》、非風《ひふう》、飄亭《ひょうてい》、古白《こはく》、明庵《めいあん》、五洲《ごしゅう》、可全《かぜん》らの名前があった。これらは皆同郷の先輩であったが非風、古白、可全三君の外は皆未見の人であった。明庵というのは前の大蔵次官の勝田主計《しょうだかずえ》君の事である。
 藤野古白君は子規居士よりも前に知っていた。そうして京都では何人よりも一番この古白君に出逢う機会が多かった。それは余の学校の保証人|栗生《くりふ》氏は古白君の姻戚で、古白君は帰郷の往還《ゆきかえり》によくその家に立寄ったからであった。ある時は古白君と連立って帰郷し、帰路大阪へ立寄って文楽《ぶんらく》を一緒に聞いた事もあった。
 余は聖護院《しょうごいん》の化物屋敷という仇名《あだな》のある家に下宿していた。その頃は吉田町にさえ下宿らしい下宿は少なかった。まして学校を少し離れた聖護院には下宿らしいものはほとんどなかった。此の化物屋敷も土塀《どべい》は崩れたまま、雨は洩るままと言ったような古い大家にごろごろと五、六人の学生が下宿していた。ある日、すぐ近処の聖護院の八ツ橋を買って食っているとそこへ突然余の名を指して来た客があった。それは子規居士であった。そこでどんな話をしたか忘れたが、とにかく八ツ橋を食いながら話した。この時子規居士はいよいよ文科大学の退学を決行して日本新聞入社という事に定《き》まり家族引連れのため国へ帰るところであった。それから二人は連立って散歩に出た。この時の居士はかつて見た白木綿の兵児帯姿ではなく瀟洒《しょうしゃ》たる洋服に美くしい靴を穿《は》いていた。二人はまず南禅寺へ行って、それから何処《どこ》かをうろついて帰りに京極の牛肉屋で牛肉と東山名物おたふく豆を食った。
 その翌々日余は居士を柊屋に訪ねた。女中に案内されて廊下を通っていると一人の貴公子は庭石の上にハンケチを置いてその上をまた小さい石で叩いていた。美くしい一人の女中は柱に手を掛けてそれを見ながら何とか言っていた。その貴公子らしく見えたのは子規居士であった。
「何をしておいでるのぞ。」と余は立ちどまって聞くと、
「昨日高尾に行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ。」と言って居士はまだコツコツと叩いた。柱に凭《もた》れている女中は婉転《えんてん》たる京都弁で何とか言っては笑った。居士も笑った。余はぼんやりとその光景を見ていた。たしかこの日であったと思う。二人が連立って嵐山の紅葉を見に行ったのは。
 当時を回想する余の眼の前にはたちまち太秦《うずまさ》あたりの光景が画の如くに浮ぶ。何でも二人は京都の市街を歩いている時分からこの辺に来るまで殆ど何物も目に入らぬようにただ熱心に語り続けていた。それは文学に対する前途の希望を語り合っているのであった。子規居士の顔の浮きやかに晴れ晴れとしていた事はこの京都滞在の時ほど著しい事は前後になかったように思う。何《なん》にせよ多年の懸案であった学校生活を一擲《いってき》して、いよいよ文学者生活に入ることになったのであるからその、一言一行に生き生きした打晴れた心持の現われているのも道理あることであった。
 二人は楽しく三軒家で盃を挙げた。それから船に御馳走と酒とを積み込ませて大悲閣まで漕ぎ上ぼせた。船に積まれた御馳走の皆無になるまで二人は嵐山の山影を浴びて前途の希望を語り合った。後年子規居士は、自分はあの時ほど身分不相応の贅沢《ぜいたく》をした事はない、と言った。
 話がちょっともとに戻るが、居士が「月《つき》の都《みやこ》」という小説を苦心経営したのは余がまだ松山にいる頃であったと記憶する。居士は初めこれを処女作として世に問う積りであったらしいが、稿を終えて後ち、かえってこういう意味の事をその書信の中にもらして来た。「余は人間は嫌いだ、余の好きなのは天然だ。余は小説家にはならぬ。余は詩人になる。」言葉は長かったが意味はこの外に出なかったと思う。殊にその詩人という字には二重圏点が施してあったと記憶する。居士がその後一念に俳句革新に熱中したのはこの時の決心が根柢になっていることと思う。そこでその「月の都」を懐にして露伴和尚を天王寺畔に訪うた時も、小説談よりもかえって俳句の唱和の方が多かったようである。
 京都清遊の後、居士はたちまち筆硯《ひっけん》に鞅掌《おうしょう》する忙裡《ぼうり》の人となった。けれども閑《かん》を得れば旅行をした。「旅の旅の旅」という紀行文となって『日本』紙上に現われた旅行はその最初のものであった。この時分から居士の手紙には何となく急がしげな心持がつき纏《まと》っていた。染々《しみじみ》と夜を徹して語るというようなゆったりした心持のものはもう見られなくなった。その旅中伊豆の三島から一葉の写真を余の下宿に送ってくれた。それは菅笠を下に置いて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結びつつある姿勢で、
[#ここから3字下げ]
甲かけに結びこまるゝ野菊かな
[#ここで字下げ終わり]
という句が認《したた》めてあった。余は京都に在る間『日本新聞』は購読しなかったのであるが、この紀行と前後して居士の俳論、俳話は日々の紙上に現われてそれらは俳句革新の警鐘となりつつあるのであった。後年『獺祭書屋俳話《だっさいしょおくはいわ》』として刊行されたものがこれである。
 その春休みは月の瀬近傍に発火演習を遣る旨が学校の講堂に掲示された時余は誰にも言わず一人で東京行きを志した。一日の費用拾五銭という予算で徒歩旅行を始めたのであった。けれどもそれは名古屋を過ぎ池鯉府《ちりゅう》に行って遂に底豆を踏み出し、行こうか帰ろうかと刈谷の停車場で思案した末遂に新橋までの切符を買ってしまった。子規居士は驚いて余を迎え小会を旧根岸庵――今の家より二、三軒西の家――に開いてくれた。その時は鳴雪、松宇、庵主、余の四人の会合であったかと思う。そうして余は二、三日滞在の上帰路は箱根を越え、富士川を渡り、岩淵停車場まで徒歩し、始業の時日が差迫ったためにそれからまた汽車に乗って帰った。同級生は皆月の瀬の勝《しょう》を説いていたが、余は黙って、根岸庵小会の清興を心に繰返えしていた。
 さて京都の一年も夢の間に過ぎた。余はその前年の冬休みにもその年の夏休みにも帰省した。が別に文学上の述作をするのでもなく、あまり俳句を作るでもなく、碧梧桐君と一緒に謡《うたい》など謡って遊び暮らした。こういうと極めて暢気《のんき》なようであるが、実にその京都遊学の一年間は、精神肉体共に堪え難き苦痛と戦った時代であった。それは何冊かの日記になって今もなお篋底《きょうてい》に残って居る。吉田町の何とかいう開業医は余に一年間の静養を勧めた。けれども余は思い切って休学する勇気もなかった。
 夏休み二カ月の放心は大分元気を回復して、今度は碧梧桐君と相携えて再び京都に出た。それから余は同好数人と共に回覧雑誌を創《はじ》めたり、小述作を試みて見たりした。鳴雪、飄亭の二君は相ついで吉田の虚桐庵またの名双松庵を訪問した。――余と碧梧桐君と同宿していた下宿を、他にも同宿人があるにかかわらず我らは僭越《せんえつ》にもかく呼んでいた。そうして俳句の友、謡の友は此処《ここ》を梁山泊のようにして推しかけて来た。――鳴雪翁の一句を得るに苦心|惨澹《さんたん》せらるると、飄亭君の見るもの聞くものことごとく十七字になるのとは頗《すこぶ》る我ら二人を驚かすものがあった。かくして直ちに文学者の生活に移るべく学校生活を嫌悪するの情は漸くまた抑えることが出来なくなって来た。かくしてその学年の終らぬうちに余は遂に退学を決行して東京に上った。

    五

 退学を決行して東京に上った余は大海に泳ぎ出た鮒《ふな》のようなものでどうしていいんだか判らなかった。関根|正直《まさなお》氏の『小説史稿』や、坪内逍遥氏の『小説神髄』や『書生気質《しょせいかたぎ》』や『妹背鏡《いもせかがみ》』や、森鴎外氏の『埋木《うもれぎ》』やそんなものを古書肆から猟《あさ》って来てそれらを耽読《たんどく》したり上野の図書館に通って日を消したりしながら、さて小説に筆を染めて見ようとすると何を書いていいんだか判らなかった。初めは鳴雪翁の監督の下に在る常磐会《ときわかい》寄宿舎に居たが、やがて子規居士の家に同居することになってからも居士の日本新聞社に出勤した留守中居士の机に凭《もた》れて見たり、居士の蔵書を引ずり出して見たりするばかりで、相変らずどうして文学者になるんだか見当が附かなかった。京都にいた時分は俳句の会合も羨望の一つであったのだが、上京後子規庵その他で催される俳句会に出席して見ると思うほどの興味もなく、かつて春休みに出京した時の句会ほど好成績も収められなかった。それに誰も皆気の毒そうな眼をして余を眺め、この道楽も
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