分位ずつの割合となった。
余は和歌には殆ど無関係であった。それが原因というではなかったが『ホトトギス』には最も和歌の関係が薄かった。初めは強いて二、三の作を載せたがそれもいつか中絶してしまった。そうして俳句の分量が過半であったことはいうまでもないとして、写生文が存外重きを為してまたその方面に著しい進歩のあったことは特に記憶せなければならぬことであった。
居士もかつてこういうことを言ったことがあった。
「この間紅緑が何かに書いて居ったが、俳句の事業は革新とはいうものの寧ろ復古で、決して新らしい仕事という事は出来ないが、写生文は純然たる新らしい仕事で、これは我ら仲間が創始したものと言って誇ってもいいのである。」
しかし余をして忌憚《きたん》なく言わしめば居士の俳句の方面に於ける指導は実に汪洋《おうよう》たる海のような広濶《こうかつ》な感じのするものであったが写生文の方面に於ける指導はまだ種々の点に於て到らぬ所が多かったようである。その一、二の例をいえば、居士は頻りに山[#「山」に白丸傍点]ということを唱えて、山のない文章は駄目だとし、特に『水滸伝《すいこでん》』などを講義して居士の認
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