目立って苦痛を訴えなかったというだけで、その実病勢は漸次に進みつつあったのであろうが、我らの眼にはそれほど著しく映らなかった。
 その間居士の仕事はおよそ三つに分つことが出来た。その一つは俳句の仕事、その二は和歌の仕事、第三は写生文の仕事であった。俳句の仕事は、もう天下の大勢が定まって、ちょっと容易に動かぬまでになっていたので、居士は寧ろ其方よりも当時創業時代にあった和歌革新の事業の方により多くの力を注いでおったのである。けれども居士の事であるから決して俳句の方を疎《おろそ》かにするではなかった。和歌に関する事は主として『日本新聞』紙上に於てし、俳句に関する事は主として『ホトトギス』紙上に於てするようにしていた。その他『ホトトギス』紙上の事業の一つは写生文で、居士は此の方面に於ても我らの中堅となって常に努力を惜まなかった。
 俳句を作るもので和歌を作るものも少しはあったがそれは寧ろ少なかった。どちらかというと俳句の弟子と和歌の弟子とはそれぞれ別々に屯《たむ》ろして居った。そうして写生文の方には初めは俳句の側のものばかりであったが、中頃から和歌の側のものも走《は》せ参じてあたかも両者が半
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