碧梧桐君の言も母堂の言も決して否認しようとは思わぬ、実際居士は最も深く余を愛していてくれたように思われる。余もまた何人よりも一番深く居士を信頼していた。居士の言行は一に余の脳裏に烙印《やきいん》せられていて今もなお忘れようとしても忘れることは出来ぬのである。それにかかわらず道灌山以来余と居士との間にはどうすることも出来ぬある物が常に常に存在していたという事はまた止むを得ぬ事であった。
明治二十九年に入って後ち居士の腰痛は緩んだり激しくなったりした。そうしてそれが遂に僂麻質斯《りうまちす》でなくて結核性の脊髄炎であると判ったのは三月の中旬の事であった。この時居士が折節帰省中であった余に与えた手紙は面白い消息を伝えておる。少し長いけれどもそれをここに載することにする。
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「貴兄驚き給うか。僕は自ら驚きたり。今日の夕暮ゆくりなくも初対面の医師に驚かされぬ。医師は言えり。この病は僂麻質斯にあらずと。
歩行し得ざる事ここに五旬、体温高き時は三十九度に上り低き時は三十五度七分に下《くだ》る。たちまち寒くして粟《あわ》肌に満ち、たちまち熱くして汗胸を濡《うる》おす。しかも
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