を容《い》れてこれを実行する勇気は私にはないのである。」
もう二人共いうべき事はなかった。暮れやすい日が西に舂《うすづ》きはじめたので二人は淋しく立上った。居士の歩調は前よりも一層怪し気であった。
御院殿《ごいんでん》の坂下で余は居士に別れた。余は一人になってから一種名状し難い心持に閉されてとぼとぼと上野の山を歩いた。居士に見放されたという心細さはもとよりあった。が同時に束縛されておった縄が一時に弛《ゆる》んで五体が天地と一緒に広がったような心持がした。今一つは多年余を誨誡《かいかい》し指導する事の上に責任と興味とを持っていた居士に今日の最後の一言で絶望せしめたという事に就いて申訳のないような悔恨の情もこみ上げて来た。
居士が余に別れて独り根岸の家に帰って後ちの痛憤の情はその夜居士が戦地に在る飄亭君に送った書面によって明白である。その書面の結末に次の文句がある。
「今まででも必死なり。されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。」
かくして居士はいよいよあせりいよいよいら立ち一方に病魔と悪戦しつつ文学界に奮闘を試みたのであった。
十一
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