いっしゅく》らの松風会員諸君の日参して来るのを相手に句作に耽《ふけ》ったのであったが、その間に在って居士は『日本新聞』紙上に「俳諧大要」を連載し始めた。これはやはり松風会員の一人であった盲俳人|華山《かざん》君のために説くという形式によって居るが、その実居士の胸奥に漸く纏った自己の俳句観を天下に宣布したものであった。
居士は二十八年の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過《よ》ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛《とうつう》を覚えると言って余のこれを新橋に迎えた時のヘルメットを被っている居士の顔色は予想しておったよりも悪かった。須磨の保養院にいた時の再生の悦びに充ちていた顔はもう見ることが出来なかった。居士は足をひきずりひきずりプラットホームを歩いていた。
「リョウマチのようだ。」と居士は言った。けれどもそれはリョウマチではなかった。居士を病床に釘《くぎ》附けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄腰炎はこの時既にその症状を現わし来つつあったのであった。
居士が根岸の住みなれた庵《いおり》に病躯を横たえてから一月ばかり後のことであった。余に来てくれという一枚の葉
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