。今入院さしたところよなもし。」と言われた。それで余らはすぐその足で病室に入って看護することになった。ピストルの丸《たま》は前額に深く這入っていたがまだ縡《こと》切れてはいなかった。余はその知覚を失いながら半身を動かしつつある古白君をただ呆《あき》れて眺めた。謹厳な細字で認められた極めて冷静な哲学的な遺書がその座右の文庫の中から発見された。
 数日にしてこの不可思議な詩人は終に冷たい骸《むくろ》となった。葬儀の時坪内先生の弔文が抱月氏か宙外氏かによって代読されたことを記憶しておる。
 子規居士は広島に在ってこの悲報に接したのであった。けれども居士がしみじみと古白君の死を考えたのは秋帰京してその遺書を精読してからであった。「古白|逝《ゆ》く」という一篇の長詩は『日本人』紙上に発表された。

    九

 古白君の死よりも少し前であった、非風君は日本銀行の函館? の支店に転任した。
 非風君は北海道に去り、古白君は逝き、子規、飄亭両君は従軍したその頃の東京は淋《さび》しかった。それでも鳴雪翁、碧梧桐君などがいたので時々俳句会はあった。俳句談に半日を消《しょう》する位の事は珍らしくなかった
前へ 次へ
全108ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング