人々から祝福を受けたことは非常なものであった。
余は手荷物を預けてしまって上野ステーションの駅前の便所に這入った時、余の服装が紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえ》と白地の単衣との重ね着であった事をどういうものだか今だに記憶して居る。汽車が白河の関を過ぎた頃から天地が何となく蕭条《しょうじょう》として、我らは左遷されるのだというような一種の淋しい心持を禁ずることが出来なかった。乗客の中《うち》にだんだん東音の多くなって来る事も物淋しさを増す一つの種であった。
さて仙台駅に下車して見ると、それは広い停車場ではあったが、何処《どこ》となくガランとしていて、まだ九月の初めであるというのに秋風らしい風が単衣の重ね着の肌に入《し》みた。車を勧めに来た車夫のもの言いが皆目《かいもく》判らなかった。碧梧桐君の親戚の陸軍大尉(?)宇和川氏の家にともかく一応落着いて、二人は素人下宿を探しに出た。そうして新町四十七番地鈴木芳吉という湯屋の裏座敷を借りて其処《そこ》に二人は机を並べ行李を解いた。其処に年とった上《かみ》さんと若い上さんと二人あったが、二人共早口でその話すことが暫くの間全く通じなかった。この銭湯の主人公の姓名を今なお不思議に記憶しているのも、スンマツスツジウスツバンツスズキヨスキツとそのお上さんたちが言った言葉をその後になって口癖のように面白がって繰返していたからである。
学校は町外れにあったかと思うが、余はこの学校では講堂と教室と下駄箱と器械体操の棚だけを記憶して居る。転学後間もなく我らは講堂に召集されて吉村校長からデグニチーという事を繰り返して説法された。この説法がひどく余の気に入らなかった。三高では折田校長が声を顫《ふる》わせて勅語を朗読さるる位の外あまり顔も出さず、小言も言われなかったが、それでも一高に比べると校風がどことなくこせついているというような不平が一般の口から洩れていた。ところが二高に来て見ると、これはまた京都以上に細々した事が喧《やかま》しかった。第一靴を脱いで上草履に穿き替えなければ板間に上ることが出来なかった。余の頭に下駄箱の厭な印象が深く染み込んでいるのはこのためで、ついでこの講堂に於ける、人を子供扱いにしたデグニチー論がひどく神経に障《さわ》った。それから教室に於いては湯目《ゆめ》教授の独逸《ドイツ》語がひどく神経に障った。殊に教授は意地悪く余に読ませた。そうして常に下読を怠っていた余は両三度手ひどく痛罵《つうば》された。それからまた体操の下手な余は殊に器械体操に反感を持っていた。ある時、
「下駄を穿《は》いているものは跣足《はだし》になる。」と体操教師は怒鳴った。多くの人は皆跣足になった。余と碧梧桐君とは言合わしたように跣足にならなかった。順番が来て下駄を穿いたままで棚に上ろうとすると教師は火の出るように怒った。多くの生徒はどっと笑った。それから棚に上ろうとして足をぴこぴこさせても上れなかった時に多くの生徒は再びどっと笑った。これから後《の》ち器械体操に対する反感はいよいよ強くなって休むことが多かった。湯目教授の独逸語もよく休んだ。
その頃同級生であって記憶に残っているものは久保|天随《てんずい》、坂本|四方太《しほうだ》、大谷|繞石《じょうせき》、中久喜信周《なかくきしんしゅう》諸君位のものである。久保君は向うから突然余に口を利いて『尚志会雑誌』に文章や俳句を寄稿してくれぬかと言った。余はその頃国語の先生が兼好法師の厭世《えんせい》思想を攻撃したのが癪《しゃく》に障ってそれを讃美するような文章を作って久保君に渡したことなどを記憶している。その後久保天随君の名は常に耳にしているが、今でも余のデスクの傍に来て文章を書く事を勧めた時のジャン切り頭、制服姿が君の印象のすべてである。その後余は天随君には一度も逢わないのである。
坂本四方太、大谷繞石の二君はやはり京都よりの転学組に属する。大谷繞石君は京都でもよく往来《ゆきき》した。一緒に高知の人吉村君に剣舞を習ったりした。「孤鞍衝雨《こあんあめをついて》」などは繞石君得意のもので少女不言花不語《しょうじょものいわずはなかたらず》の所などは袖《そで》で半《なか》ば顔を隠くして、君の小さい眼に羞恥《しゅうち》の情を見せるところなど頗《すこぶ》る人を悩殺するものがあった。余も東京に放浪中は酒でも飲むとこの京都仕込みの剣舞を遣ったが、東京の日比野|雷風《らいふう》式の剣舞に比較して舞のようだという嘲罵を受けたので爾来《じらい》遣らぬことにした。
余が京都で無声会という会を組織して回覧雑誌を遣っていた時も繞石君はその仲間であった。――序《つい》でに無声会員は栗本勇之助、金光|利平太《りへいだ》、虎石|恵実《けいじつ》、大谷繞石、武井|悌四郎《ていしろう》、林|並木
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