う字には二重圏点が施してあったと記憶する。居士がその後一念に俳句革新に熱中したのはこの時の決心が根柢になっていることと思う。そこでその「月の都」を懐にして露伴和尚を天王寺畔に訪うた時も、小説談よりもかえって俳句の唱和の方が多かったようである。
京都清遊の後、居士はたちまち筆硯《ひっけん》に鞅掌《おうしょう》する忙裡《ぼうり》の人となった。けれども閑《かん》を得れば旅行をした。「旅の旅の旅」という紀行文となって『日本』紙上に現われた旅行はその最初のものであった。この時分から居士の手紙には何となく急がしげな心持がつき纏《まと》っていた。染々《しみじみ》と夜を徹して語るというようなゆったりした心持のものはもう見られなくなった。その旅中伊豆の三島から一葉の写真を余の下宿に送ってくれた。それは菅笠を下に置いて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結びつつある姿勢で、
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甲かけに結びこまるゝ野菊かな
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という句が認《したた》めてあった。余は京都に在る間『日本新聞』は購読しなかったのであるが、この紀行と前後して居士の俳論、俳話は日々の紙上に現われてそれらは俳句革新の警鐘となりつつあるのであった。後年『獺祭書屋俳話《だっさいしょおくはいわ》』として刊行されたものがこれである。
その春休みは月の瀬近傍に発火演習を遣る旨が学校の講堂に掲示された時余は誰にも言わず一人で東京行きを志した。一日の費用拾五銭という予算で徒歩旅行を始めたのであった。けれどもそれは名古屋を過ぎ池鯉府《ちりゅう》に行って遂に底豆を踏み出し、行こうか帰ろうかと刈谷の停車場で思案した末遂に新橋までの切符を買ってしまった。子規居士は驚いて余を迎え小会を旧根岸庵――今の家より二、三軒西の家――に開いてくれた。その時は鳴雪、松宇、庵主、余の四人の会合であったかと思う。そうして余は二、三日滞在の上帰路は箱根を越え、富士川を渡り、岩淵停車場まで徒歩し、始業の時日が差迫ったためにそれからまた汽車に乗って帰った。同級生は皆月の瀬の勝《しょう》を説いていたが、余は黙って、根岸庵小会の清興を心に繰返えしていた。
さて京都の一年も夢の間に過ぎた。余はその前年の冬休みにもその年の夏休みにも帰省した。が別に文学上の述作をするのでもなく、あまり俳句を作るでもなく、碧梧桐君と一緒に謡《うたい》など謡って遊び暮らした。こういうと極めて暢気《のんき》なようであるが、実にその京都遊学の一年間は、精神肉体共に堪え難き苦痛と戦った時代であった。それは何冊かの日記になって今もなお篋底《きょうてい》に残って居る。吉田町の何とかいう開業医は余に一年間の静養を勧めた。けれども余は思い切って休学する勇気もなかった。
夏休み二カ月の放心は大分元気を回復して、今度は碧梧桐君と相携えて再び京都に出た。それから余は同好数人と共に回覧雑誌を創《はじ》めたり、小述作を試みて見たりした。鳴雪、飄亭の二君は相ついで吉田の虚桐庵またの名双松庵を訪問した。――余と碧梧桐君と同宿していた下宿を、他にも同宿人があるにかかわらず我らは僭越《せんえつ》にもかく呼んでいた。そうして俳句の友、謡の友は此処《ここ》を梁山泊のようにして推しかけて来た。――鳴雪翁の一句を得るに苦心|惨澹《さんたん》せらるると、飄亭君の見るもの聞くものことごとく十七字になるのとは頗《すこぶ》る我ら二人を驚かすものがあった。かくして直ちに文学者の生活に移るべく学校生活を嫌悪するの情は漸くまた抑えることが出来なくなって来た。かくしてその学年の終らぬうちに余は遂に退学を決行して東京に上った。
五
退学を決行して東京に上った余は大海に泳ぎ出た鮒《ふな》のようなものでどうしていいんだか判らなかった。関根|正直《まさなお》氏の『小説史稿』や、坪内逍遥氏の『小説神髄』や『書生気質《しょせいかたぎ》』や『妹背鏡《いもせかがみ》』や、森鴎外氏の『埋木《うもれぎ》』やそんなものを古書肆から猟《あさ》って来てそれらを耽読《たんどく》したり上野の図書館に通って日を消したりしながら、さて小説に筆を染めて見ようとすると何を書いていいんだか判らなかった。初めは鳴雪翁の監督の下に在る常磐会《ときわかい》寄宿舎に居たが、やがて子規居士の家に同居することになってからも居士の日本新聞社に出勤した留守中居士の机に凭《もた》れて見たり、居士の蔵書を引ずり出して見たりするばかりで、相変らずどうして文学者になるんだか見当が附かなかった。京都にいた時分は俳句の会合も羨望の一つであったのだが、上京後子規庵その他で催される俳句会に出席して見ると思うほどの興味もなく、かつて春休みに出京した時の句会ほど好成績も収められなかった。それに誰も皆気の毒そうな眼をして余を眺め、この道楽も
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