たが、いずれも売切れて、第三号はあまり用心し過ぎて大分読者に行渡らず種々の不平を聞いたほどであった。第四号以下は千二、三百から千四、五百に殖えて行ったように記憶する。
 この雑誌売行の成功という事は頗《すこぶ》る仲間の人気を引立てた。居士初め何人も我党の人気がそれほど盛であろうとは予期しなかった事でいずれも多少の意外に感じたことであった。が、同時にまた、
「虚子は我ら仲間が食わしてやっているのだ。」というような不平が同人仲間にあった。これもやはり余に対する同情の少なかったのが原因で、それも余の不注意が最大原因を為しているのであった。
 居士は余と他の人々との間に立って両者の意思を疏通《そつう》することを常に忘れなかった。が、また他の人々の意見を借りて居士自身の不平を余に訴えることも少くはなかった。
 余は先きに『ホトトギス』の関係が出来てから居士の周囲に於ける余の影は再び濃くなったと書いたが、しかし悲しむべきことには一方に妻子を控えていた余は決してその昔し――道灌山以前に――余が居士の周囲に影の濃かった時代に比べると何処《どこ》となく不純なところがあった。かつて居士の眼に、世間の事には全く疎く金銭の事には殆ど低能児だとまで見られていた余が、存外世間の事にかけて居士よりも巧者なことがあり、金銭に於てもそれほど間が抜けていないという事が判った時に、居士は一面に安心したと同時に一面には多少の不快をも感じたに相違なかった。『ホトトギス』は必ずしも営利的の事業という事は出来なかったけれども、幸か不幸か相当に売れて、まず雑誌としては成功した部に属したという事が、同人仲間の関係をしていくらかむずかしくならしめたという事は争うことの出来ぬことであった。それも余がその際に処することが行届いていたならばそれほど難事ではなかったのであろうけれども頗る不行届であったという事が勢いそれをむずかしくならしめたのであった。居士は、居士自身の不平はさて措いて、常にその点に注意を払って余のために『ホトトギス』のために――憂慮していた。
 居士の健康は決していい方に向うのではなかったが、二十八、九年頃の病勢に比べると大分緩和されたので三十年、三十一年、三十二年という三年間位はそれほど衰弱が増したように余所目《よそめ》には見えなかった。もっともこれは余所目である。居士にしては止むを得ず病気に慣らされて、
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