は非常に密接になった。
 その前から、明治三十年の頃から、居士は和歌の革新を思い立ってその方に一半の努力を割《さ》いていたのであったが、その方は余も碧梧桐君もあまり関係はなかった。初めの間は和歌の会に案内を受けて二、三度行ったこともあったが、余らの作は俳句の調子になってどうも和歌らしいものが出来なかったのでそのまま止めてしまった。碧梧桐君も同様であったように記憶する。それで余らは単に俳句の方の門下生として居士の許に時々顔を出すに過ぎなかったのであったが、いよいよ『ホトトギス』を東京に移して晴々しく文壇に打って出ることになってから、居士の注意も暫くは此の雑誌の方に傾いていたようであり、自然その当事者たる余は最も居士と交渉が多かった。
 碧梧桐君初め多くの同人の頭には、
「虚子が東京で雑誌を遣るそうであるが、そんな馬鹿なことをして成功するものか。」というような軽侮の念があったことは隠くされぬ事実であった。もっともそういう風に同人から同情を得なかったという事は余の注意が行届かなかったのも一つの原因を為《な》しておる。由来余は感興に任せて事をするためにいつもそのステップを踏むことを忘れるのである。時には気のついて居る事もあるけれども、気がついていながらそれを踏むことが面倒臭いのである。そのため人から種々の誤解を受け反感を招くのである。これは他人の罪でなく一に余の罪である。此の東京で『ホトトギス』を遣るようになった時も余は居士とは熟議を経たけれども碧梧桐君その他にはあまり念の入った相談はしなかったかと思う。碧梧桐君らがその事についてたいした同情を持たず、時としては反感を抱くことすらあったというのも当然の事だと今からは考えるのである。
 が、諸君とそういう関係であったという事が余と居士との関係をしてますます深からしめる原因ともなったのであった。
「『ホトトギス』は他の何人の力も借らずに二人の力でやらねばならぬ。」
 こういう考は期せずして両人の頭に在った。
『ホトトギス』は予期以上の成功であった。当時の文壇はまだ幼稚であって文学雑誌というものも『早稲田文学』、『帝国文学』、『めさまし草』、その他一、二あったばかりで競争者が少なかったのにも原因するであろうが、初版千五百部が瞬く間に売切れて五百部再版したことはちょっと目ざましいことであった。第二号は千二百部を刷り第三号は千部を刷っ
前へ 次へ
全54ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング