目立って苦痛を訴えなかったというだけで、その実病勢は漸次に進みつつあったのであろうが、我らの眼にはそれほど著しく映らなかった。
 その間居士の仕事はおよそ三つに分つことが出来た。その一つは俳句の仕事、その二は和歌の仕事、第三は写生文の仕事であった。俳句の仕事は、もう天下の大勢が定まって、ちょっと容易に動かぬまでになっていたので、居士は寧ろ其方よりも当時創業時代にあった和歌革新の事業の方により多くの力を注いでおったのである。けれども居士の事であるから決して俳句の方を疎《おろそ》かにするではなかった。和歌に関する事は主として『日本新聞』紙上に於てし、俳句に関する事は主として『ホトトギス』紙上に於てするようにしていた。その他『ホトトギス』紙上の事業の一つは写生文で、居士は此の方面に於ても我らの中堅となって常に努力を惜まなかった。
 俳句を作るもので和歌を作るものも少しはあったがそれは寧ろ少なかった。どちらかというと俳句の弟子と和歌の弟子とはそれぞれ別々に屯《たむ》ろして居った。そうして写生文の方には初めは俳句の側のものばかりであったが、中頃から和歌の側のものも走《は》せ参じてあたかも両者が半分位ずつの割合となった。
 余は和歌には殆ど無関係であった。それが原因というではなかったが『ホトトギス』には最も和歌の関係が薄かった。初めは強いて二、三の作を載せたがそれもいつか中絶してしまった。そうして俳句の分量が過半であったことはいうまでもないとして、写生文が存外重きを為してまたその方面に著しい進歩のあったことは特に記憶せなければならぬことであった。
 居士もかつてこういうことを言ったことがあった。
「この間紅緑が何かに書いて居ったが、俳句の事業は革新とはいうものの寧ろ復古で、決して新らしい仕事という事は出来ないが、写生文は純然たる新らしい仕事で、これは我ら仲間が創始したものと言って誇ってもいいのである。」
 しかし余をして忌憚《きたん》なく言わしめば居士の俳句の方面に於ける指導は実に汪洋《おうよう》たる海のような広濶《こうかつ》な感じのするものであったが写生文の方面に於ける指導はまだ種々の点に於て到らぬ所が多かったようである。その一、二の例をいえば、居士は頻りに山[#「山」に白丸傍点]ということを唱えて、山のない文章は駄目だとし、特に『水滸伝《すいこでん》』などを講義して居士の認
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