《へいぼく》、岡本勇、河東碧梧桐、高浜虚子という顔振れであった。栗本勇之助君は今は大阪の弁護士、金光君は今は亀山姓を名乗って台湾総督府の警務総長、虎石君は岡崎中学校の教授、武井君は京都高等女学校の校長、林、大谷、岡本三君は揃いも揃って第二高等学校教授をしておる。――坂本君は京都では覚えがなかった。ただ後になって余が京都着早々行李を下ろした上長者町の奥村氏の家に余が去ったあとへ移って来たことがあったという話を聞いた。
 その大谷君と坂本君とがある日連れ立って銭湯の裏座敷の余ら寓居を訪問して来た。二君の来意はこれから一つ俳句を遣って見たいと思うが教えてくれぬかとの事であった。二君が熱心な俳句宗となったのは後に子規居士の許《もと》に直参してからの事であったが手ほどきはこの鈴木芳吉君の裏座敷であった。
 碧梧桐君も余もだんだん学校へは足を向けなくなった。余は東京で買った文学書類に親しんだり、文章を書いて見たりした。碧梧桐君も同じような事をしていた。日暮になると二人は広瀬橋畔に出て川を隔てて対岸の淋しい灯火《ともしび》を見ることを日課にしていた。その灯火をじっと見ていることは腸《はらわた》を断つように淋しかった。
 その灯火もだんだんと寒くなって来た。我らは行李から袷《あわせ》を出し綿入を出して着た。銭湯の裏座敷に並べた机の上の灯火も寒い色が増して来た。
 仙台に留まることは三月ばかりに過ぎなかった。二人は協議の上また退学という事に決した。
 名残《なごり》として松島を見物した。塩釜神社の長い石段も松島の静かな眺めも何となく淋しかった。松島から帰った日、今の工科大学教授加茂正雄君、昨年露国|駐剳《ちゅうさつ》大使館一等書記官として亡くなった小田徳五郎君らの周旋の下に京都転学組一同は余ら二人の送別茶話会を開いてくれた。小田君が送別の辞を陳《の》べてくれたので、余は答辞を陳べねばならぬことになり、頗るまずい演説をした。碧梧桐君は松島遊覧の発句を一句高誦して喝采《かっさい》を博した。
 日清戦争はこの仙台在学中に始まっていた。保証人の宇和川大尉は出征後間もなく戦死した。

    七

 碧梧桐君と二人で仙台の第二高等学校を退学して上京してからは二人とも暫時の間根岸の子規居士の家に居た。そのうち碧梧桐君は居士の家に止まり余は小石川武島町に新世帯を持っている新海非風君の家に同居するこ
前へ 次へ
全54ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング