余に読ませた。そうして常に下読を怠っていた余は両三度手ひどく痛罵《つうば》された。それからまた体操の下手な余は殊に器械体操に反感を持っていた。ある時、
「下駄を穿《は》いているものは跣足《はだし》になる。」と体操教師は怒鳴った。多くの人は皆跣足になった。余と碧梧桐君とは言合わしたように跣足にならなかった。順番が来て下駄を穿いたままで棚に上ろうとすると教師は火の出るように怒った。多くの生徒はどっと笑った。それから棚に上ろうとして足をぴこぴこさせても上れなかった時に多くの生徒は再びどっと笑った。これから後《の》ち器械体操に対する反感はいよいよ強くなって休むことが多かった。湯目教授の独逸語もよく休んだ。
 その頃同級生であって記憶に残っているものは久保|天随《てんずい》、坂本|四方太《しほうだ》、大谷|繞石《じょうせき》、中久喜信周《なかくきしんしゅう》諸君位のものである。久保君は向うから突然余に口を利いて『尚志会雑誌』に文章や俳句を寄稿してくれぬかと言った。余はその頃国語の先生が兼好法師の厭世《えんせい》思想を攻撃したのが癪《しゃく》に障ってそれを讃美するような文章を作って久保君に渡したことなどを記憶している。その後久保天随君の名は常に耳にしているが、今でも余のデスクの傍に来て文章を書く事を勧めた時のジャン切り頭、制服姿が君の印象のすべてである。その後余は天随君には一度も逢わないのである。
 坂本四方太、大谷繞石の二君はやはり京都よりの転学組に属する。大谷繞石君は京都でもよく往来《ゆきき》した。一緒に高知の人吉村君に剣舞を習ったりした。「孤鞍衝雨《こあんあめをついて》」などは繞石君得意のもので少女不言花不語《しょうじょものいわずはなかたらず》の所などは袖《そで》で半《なか》ば顔を隠くして、君の小さい眼に羞恥《しゅうち》の情を見せるところなど頗《すこぶ》る人を悩殺するものがあった。余も東京に放浪中は酒でも飲むとこの京都仕込みの剣舞を遣ったが、東京の日比野|雷風《らいふう》式の剣舞に比較して舞のようだという嘲罵を受けたので爾来《じらい》遣らぬことにした。
 余が京都で無声会という会を組織して回覧雑誌を遣っていた時も繞石君はその仲間であった。――序《つい》でに無声会員は栗本勇之助、金光|利平太《りへいだ》、虎石|恵実《けいじつ》、大谷繞石、武井|悌四郎《ていしろう》、林|並木
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