とになった。
 この間も発句を作る位の外あまり勉強もしなかった。初め別居したのは、別居していくらか勉強もするつもりであったのだが、事実はそうもいかなかった。そうして余が碧梧桐君を訪わねば碧梧桐君が余を訪うて二人でよくぶらぶらと東京市中を歩き廻った。
 ある時子規居士は余の不勉強の主因を非風君の家に同居しているのに在るとして、
「家がも少し広ければお前も一緒に居てもいいけれど、秉公《へいこう》一人だけでも母なんか大分急がしそうだから二人はむずかしかろう。下宿でもして見てはどうかな。」と勧めた。余も遂にその気になって本郷台町の柴山という下宿に卜居《ぼっきょ》することにした。居士は早速その家へ訪ねて来て、
「これは以前に夏目漱石の居た家じゃ。それでお前何でもええから自分の好きな事を遣って御覧や。」そんな事を言って帰った。
 この宿に碧梧桐君が来たかどうかという事を覚えて居ぬ。ただやや静かな心持で余は書物に親しんで居ったように記憶して居る。そうしてある哲学めいた一文章を認めて居士に送った。居士はその後間もなく再び下宿を訪うて居士自身の哲学観を陳《の》べた一篇を渡した。この一篇は今も獺祭書屋の居士の文稿のうちに残って居る。
 居士はそんな事をして余らを激励する事を怠らなかった。
 日清戦争はますます酣《たけなわ》となって『日本新聞』からは沢山の記者が既に従軍したが、なお一人を要するという時に居士は進んでこれに当ることになった。余らは居士の病躯《びょうく》で思いもよらぬ事だと思ったが、しかし余らのいう事はもとより容《い》れなかった。居士は平生、
「お前は人に相談という事をおしんからいかん。自分で思い立つと矢も楯もたまらなく遣っておしまいるものだから後でお困りるのよ。」とよく余に忠告したがしかしそれには余は服さなかった。如何《いかん》となれば居士もまた同じような人であったからである。ただ晩年になっては些細《ささい》の私事までも人に相談せねば断行せぬような傾きのあったのは一つは病重く自分の体でありながら思うままにならぬ所もあり、二つには自重して軽挙しなかったところもあろうが、三つにはまたよく前途を明察して後に発する言なればその言うところ必ず行われざるなく、いわば他人を悦服せしむるためにただそれだけのステップを踏んだというのに過ぎなかった。その自我心の強く一旦思い立った事を容易に撤回
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