載せてあって、十八日も欠け、十九日朝に永眠されたのであった。それから思うと十五日の臭気の記事を除くと、実に十四日の朝の記事は居士の最後の文章と言ってもいいものであったのである。
 十五日から十七日までのことは記憶が朧気《おぼろげ》であるが、十八日の午前であったか、午後であったか、余らが枕頭に控えていると居士は数日来同じ姿勢を取ったままで音もなく眠って居た。其処《そこ》へ宮本|仲《ちゅう》氏――医師――が見えて、
「どの辺が苦しいですか。」と聞いた。
「この辺一面に……」と居士は左の手で胸の当りを教えた。胸部には水が来て居ったが、手の方は痩せたままであったので、殆ど骨に皮を着せたような大きな手を広ろげるようにしてその胸部を教えた時の光景が目に染み込んでいる。
「そうですか。それでは楽にしてあげますよ。」と宮本氏は子供にでも言って聞かすような調子で言って何か粉薬を服用させた。それもガラス管で水を吸い上げるようにして飲んだのであった。
 それから居士は眠ったようであった。枕頭にいる我らも黙りこくっていた。沈鬱な空気が部屋に漂っていた。それから暫くして居士はまた目を覚まして、口が渇《かわ》くのであろう、
「水……」と言った。妹君は先刻服薬した時のようにやはりガラスの管《くだ》で飲ませた。居士はそれを飲んでから、
「今誰が来ておいでるのぞい。」と聞いた。妹君は枕頭に固まっていた我らの名を読み上げた。
 それから暫くの間の事は記憶していない、たしか余は他の人と交代して一応自分の家に引取ったものかと思う。
 その十八日の夜は皆帰ってしまって、余一人座敷に床を展《の》べて寝ることになった。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。それは十二時頃であったろう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛っていた。余は黙ってその月を仰いだまま不思議な心持に鎖《とざ》されて暫く突立っていた。
 やがてまた座敷に戻って病床の居士を覗いて見るとよく眠っていた。
「さあ清さんお休み下さい。また代ってもらいますから。」と母堂が言われた。母堂は少し前まで臥せっていられたのであった。そこで今まで起きていた妹君も次の間に休まれることになったので、余も座敷の床の中に這入った。
 眠ったか眠らぬかと思ううちに、
「清《きよ》さん清さん。」という声が聞こえた。その声は狼狽《ろうばい》した声であった。余が蹶起《けっき》して
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