病床に行く時に妹君も次の間から出て来られた。
その時母堂が何と言われたかは記憶していない。けれどもこういう意味の事を言われた。居士の枕頭に鷹見氏の夫人と二人で話しながら夜伽《よとぎ》をして居られたのだが、あまり静かなので、ふと気がついて覗いて見ると、もう呼吸《いき》はなかったというのであった。
妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足《はだし》のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。
余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門《かど》を出た。
その時であった、さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処《そこ》に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰《のぼ》りつつあるのではないかというような心持がした。
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子規逝くや十七日の月明に
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そういう語呂が口のうちに呟《つぶや》かれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。
両君を起こして帰って来て見ると母堂と鷹見夫人とはなお枕頭に坐っておられた。妹君は次の間に泣いておられた。殆ど居士の介抱のために生きて居られたような妹君だもの、たとい今日あることは数年前から予期されていたことにせよ、今更別離の情の堪え難いのは当然の事である。何事にも諦らめのいい女々しい事は一度も言われたことのない母堂も今外から戻って来た余を見ると急に泣き出された。余は言うべき言葉がなくって黙ってその傍に坐った。
「升《のぼ》は清《きよ》さんが一番好きであった。清さんには一方ならんお世話になった。」と母堂は言われた。それは鷹見夫人に向って言われたのであった。余は何と答えていいかを弁《わきま》えなかった。相変らず黙って坐っているばかりであった。
碧梧桐君や鼠骨君や羯南先生なども見えた。何にせよ天明を待たねばならなかった。
羯南先生を中心にして一同で暁を待った心持はしめやかであった。
医師が来てから間もなく夜が開けた。羯南先生の宅を本陣にして葬儀
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