丸の内
高浜虚子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)勘亭流《かんていりゅう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)軍艦|長門《ながと》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    ドンが鳴ると

 震災ずっと以前のことであった。今はもう昔がたりになったが、あの小さい劇場の有楽座が建ったはじめに、表に勘亭流《かんていりゅう》の字で書かれた有楽座という小さい漆塗りの看板が掛っていたのに、私は奇異の眼をみはった事があった。この有楽座というのは、その頃はまだ珍しい純洋式の建築であった。どこを探しても和臭というものはなかったが、独《ひと》りこの勘亭流の字だけに従来の芝居の名残《なごり》をとどめていた。私は暫《しばら》くその勘亭流の字を眺めていたが、やがて心の中でこう思った。これが奇異に私の眼にうつるのはホンの少しの間であろう。この不調和はすぐ時が調和する、時の流れはどんな不調和に感ずるものでもきっと調和させずにはおかないと。
 帝劇の屋根の上に翁《おきな》の像が突っ立っていたのも同様であった。(震災前)はじめは何だか突飛《とっぴ》な感じがしたがしかし直ぐ眼に馴れた。汽車の中から見るときでも、多くの直線的なルーフの中に独りこのまんまるこい翁の立像を見るときに、私の心は軟かになるのを覚えた。はじめ奇異に思った感じは、時の過ぎ行くと共に取り去られて、後には不調和どころか調和しきって何の不思議も感じない様になった。
 丸ビルは建った当時はすばらしく大きな洋式な建物が東京駅前に建ったという感じがした。私はまだ建ち終らないうちからホトトギス発行所にその一室を契約した。そうしたら周囲のものが笑って
「和服に靴ですか。そろ/\あなたも洋服を著《き》なければならないですね。」といった。私は学校時代に洋服を著たほか、一度も洋服を著たことはなかった。
「ナーニ和服で結構だ。」といったが、心ひそかに危ぶんでいた。
 出来上っていよ/\ホトトギス発行所をこの丸ビルに移転することになった。下駄《げた》は雪駄《せった》に替えた。それに下足《げそく》預り所の設備があった。雨の降る日は下駄を上草履に替えた。少しも不便を感じなかった。しかし和服のものは極めて少なかった。現に極めて少ない。何だかはじめの間は私自身が不調和に感じた。しかし今は何とも思わない。
 私自身が何とも思わないばかりか、周囲の人も何とも思わない。(であろうと想像しておる)
 そればかりか、春先や秋口になると、田舎の爺さま媼《ばあ》さま連中が丸ビル見物にくる。まずエレベーターの前に立って、
「あら上るだ、上るだ。」と傍若無人に口を開けて見ておる。やがて一つ自分も上って見ようと恐る恐る足駄《あしだ》をふみ入れると
「下駄の方《かた》は草履にお替え下さい。」と剣突を食う。何のことかわからず、暫くの間その辺をまごまごしている。こういう連中さえもこの頃では別に不調和な訪問者とも思わなくなった。
 ドンがなると丸ビルの各事務所から下の食堂めがけて行く人は大変なものである。各エレベーターはことごとく満員で、そのエレベーターが吐き出す人数は、下の十字路を通る群衆の中になだれ込んで、肩摩轂撃《けんまこくげき》の修羅場を現出する。これは少し仰山な言葉かも知れんが、兎に角大変な混雑である。私はこの状態を毎日のように目撃しながら
「斯《か》くの如くもまれにもまれて、古いもの新しいものはだん/\調和して行くのだ。」と考えてニヤリとする。そのニヤリとしている私は、忽《たちま》ち人にぶっつかり、横にはねとばされ、元来小男の私は、忽ち群衆の中に没し去られて存在を失ってしまう。
 漸く群衆の中から抜け出た私は、やっと食堂の片隅に椅子を見出してそこで空腹を充たす。弁当、すし、天どん、うなぎどんぶり、しるこ、萩の餅、そばなどの食堂もあれば、ランチ、ビイフステーキ、ポークカツレツ、蠣《かき》フライ、メンチボール、カツどんなどの洋食屋もある。この食堂になると、洋服に靴が跋扈《ばっこ》しているほど、洋食が跋扈していない。やはり日本人には祖先伝来の米の方が適しているらしい。そこで洋服の紳士(各事務室の重役連中は天辺《てっぺん》(九階)の西洋料理の方に天上するのだそうで、各階からここに天下るのは、主に雇人即ち洋服細民の部に属するということを誰かから聞いた。誰だ、洋服細民などというのは、よろしく洋服の紳士諸君と申せ)も空腹になると矢も楯もたまらず、体裁も何もかまわず、かぶりつくようにして弁当飯を食うのを目撃する。即ちここで新旧文明が苦もなくかみ合う状態を目撃するのである。

    大玄関

 震災の時、私は鎌倉から横須賀まで歩いて、関東丸に乗って品川湾に著《つ》いた。その夜は風波が荒くて上陸が出来ず、或士官の紹介で軍艦|長門《ながと》に移って、はじめて安らかな眠りについた。陸地におれば絶えず余震におびえていたのが、海上に浮んでいる城の如き軍艦の上では、眠りを驚かすものは一つもなかった。人間は窮迫すると、その場限りの安易を求める。あす又陸地に上れば様々の恐怖すべきことに出あうのであるが、そんなことはどうでもよい。ただ一夜の安眠を得るということが、その時にあっては無上の慰楽である。
 翌朝芝浦に上陸して見ると、右往左往に歩いている男女のそわそわしている状態は、鎌倉、横須賀辺に比べて更に甚《はなは》だしかった。それから芝公園に入った時避難民の群衆に驚かされて、公園を抜けてから、道の両側の焼尽された廃墟のあとに、まだぶすぶすと燃えているものがあるのを見た。
 桜田本郷町を過ぎて警視庁、帝劇の焼けあとを見、いたる所に『すいとん』の旗が出ていて、そこに人が黒山のようにたかっているのを見た。
 私はこの『すいとん』に腹をこしらえたことも一、二度ならずあった。しかしこの時八重洲町を歩いているうちに、どこであったかを忘れたが、(否、どこということを十分気にもとめなかったが)ある洋館の這入口《はいりぐち》に『ライスカレー一杯二十五銭』とある札を見て、私は大旱に雲霓《うんげい》を得た心持でそこにはいった。そこは震災に荒されたあとは見えたが、かなり立派な食堂であった。給仕人もちゃんと白い洋服を著《き》ていた。そして暖かそうな白い飯に琥珀《こはく》のような光りのある黄汁をかけたものが、私の前に運ばれた。昨夜軍艦の中では缶詰の牛肉を食った。その牛肉は素敵に美味《おい》しいものであった。それにパンも食った。そのパンも美味しかった。が、しかし白い御飯にありつくのは久しぶりであった。ましてライスカレーというような御馳走にありつくことは、予期しなかったことであった。私はそこで腹をこしらえて丸ビルに向った。
 丸ビルは多少破壊しておったが、それでも巍然《ぎぜん》としてそびえておった。丸ビルの中も雑踏しておった。その群衆の中に三菱地所部長の赤星氏が巻ゲートルをして突立っておった。私が目礼した時、氏も目礼を返したが、それが私であることは認めなかったようだ。私は相変らず和服を著て、尻をからげて、白いズボン下をはいて、腰に大きな手拭をぶら下げていた。それにひげは生え、目は落窪んでいたため、私であることは気づかなかったのであろう。それに氏の顔面筋肉は引きしまり、何事かを沈思しているように見えた。幸いに火災は免れたけれども、多少の震災は免れなかった三菱村の諸建築の事は一にかかって氏の双肩にあるのだもの。わがホトトギス発行所たる丸ビルの一室が気になって来た私とは大変な相違である。
 丸ビルの地下室の食堂が開かれたのはそれから間もないことであった。群衆は殺到した。その時から食券は前売ということになった。必要に迫られるといろ/\新しいことが発明せられる。群衆の殺到、混雑から、食券の前売ということが工夫せられた。そうして今日ではその事が、こういう食堂の一般の通則となった。
 二階の大丸呉服店にも客が殺到した。これより前大丸の店は客が店員より少いという評判であった。震災後になって俄《にわか》に客が激増した。それはその筈である。日本橋、京橋、神田というような目抜きの場所は悉《ことごと》く焼尽してしまって、わが丸の内だけが無事であったのだもの。それに丸ビルに新しく出来た商店街だけが無事であったのだもの。大東京の客は皆この丸ビルに集まった。一時は食堂、呉服店のみならず、丸ビルの十字路に設けられているあらゆる店は、悉く繁昌した。東京繁昌の中心は丸ビルにあるかの観を呈した。
 その後三越、松屋等が復興してから、又日本橋銀座等の繁昌はもとの通りとなった。しかしながら東京停車場を前に控えた大玄関の丸の内一帯は震災前とは一大変化を来して、新繁昌の中心地となろうとしている。

    東京駅

 丸ビルと行幸《みゆき》道路を隔てて近く姉妹館が建つそうである。それはホテルにするという事である。斯《か》くて大玄関の左右の翼が完備することになる。
 大玄関に対して東京市の正門は東京駅である。
 朝鎌倉からの私を乗せた汽車が東京駅に著《つ》いた時には黒山のような人が一時に改札口に殺到する。(乗車口降車口共に)尤《もっと》もそれは汽車の客ばかりではない。同時に著いた電車の客も交って。
 それ等の客の中に一人小さい男の子が交っている。洋服を著て、膝から下を露出して、ランドセルを背負って、マスクを掛けて、チョコチョコとそれ等の群衆の中に交っている。まだ幼稚園か、小学校でもたか/″\一、二年生であろうと思われるのに、誰もついていない。一人である。それが敏活に大人の間をかいくぐって階段を降りる。忽ちその姿は見えなくなる。やがて又第三ホームの山の手線の電車の階段を上っているのを見る。殆《ほとん》ど毎日のように見る。
 それ等の客の群衆は改札口に押し寄せる。ぞろ/\と後から後から来る。まだ人の山を築いておるのに、又電車が著く。吐き出す人は雪崩《なだれ》をうって又改札口に押し寄せる。併《しか》し流石《さすが》に東京駅である。改札口の人の渦は直ちに消え去ってしまう。後から後から来る人は、よく掃除された樋《とい》の水のように流れて行く。
 改札口を出た人はそこから四散する。女学生かと見えたのが、改札口の駅員にちょっと礼をしてすぐ右手の構内の駅員室に消える。これはやがてその上に黒のガウンを羽織って礼売りの窓口に現れるのであろう。
 乗車口を降りた人は丸ビルと三菱本館の間を通って行く人もある。また三菱本館の前を左に取る人もある。また目黒行、中渋谷行、新宿行、水天宮行の円太郎に乗る人もある。そしてその多くは丸ビルにはいる人のように見える。
 丸ビルには一階に百室、八階で八百室、その一室に平均十人と見て一万人近くの人が毎日出はいりするわけある[#「わけある」はママ]。それに食堂、売店に出はいりする客を数えたら大変な人になる。
 その丸ビルに吸い込まれる人を横切って自動車が駆ける。その自動車は何《いず》れも理不尽に駆ける。路行く人を屁《へ》の河童《かっぱ》と駆ける。だから丸ビルをそこに見ておって、その門口に突進するまでが大変である。命から/″\である。
 今の三菱村がまだ原であった時分、その原の一隅に今の東京駅が出来た。その頃の東京駅はだだ広くって、旅客があちらに一人こちらに一人、駅員も尋ね廻らねば見当たらぬという状態であった。
『こんな広い不便なものを拵《こさ》えてどうする積りであろう。』などという呟《つぶや》きをきいたものだ。それが今はどうであろう。急行の出る前などは旅客が一杯で身動きがならぬ有様である。
『折角作るなら、もうすこし広いものを作って置けばいいに。』
 そんなつぶやきが聞こえるようになった。
 そこで乗
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