車口も降車口もそのはいり口が幾度か改造された。(これははいり口ではないが、山の手循環線が出来た時であったが、そのプラットホームに行く階段が作りかえられた。)はじめ自動車口と人力車口と歩行者口とが区分されたが、それは却《かえ》って不便なものであった。ついで露天にれん瓦《が》が敷かれた。その部分だけは自動車がちん入しないので危険が少なくなった。が、今度は自動車の客が、雨天の節は雨ざらしにならねばならなかった。そこでその敷かれたれん瓦の一部を掘起こして、柱を立てて、その上にガラス張りの屋根が設けられた。これで先ず一応は落著いたらしく思われた。
 が、この頃又乗車口の一部分のれん瓦を掘返して、何か工事をやっているのは何事であろう。聞く所によると、これは荘司が二十何万円とかを鉄道省に寄付して、そこの地下に理髪室浴場などを設けることになったのだという事である。
 やがて遠からぬうちに東京地下鉄道のステーションがこの東京駅の前に出来るのだとかいう事も聞いた。それも結構である。又この荘司の理髪店も結構である。併しそれ等よりも東京駅と丸ビルを連絡する地下道を作って、われ等をして安心して門から玄関に行き得るようにしてもらい度いものである。二、三人自動車で轢《ひ》き殺してから、又|煉瓦《れんが》を掘りかえして工事をはじめるよりも、めい/\の命が無事なうちに願い度いものである。

    活動がはじまる

 朝早く東京駅に著いて、寒い北風を片頬に受けながら丸ビルに駆け込むと二、三台のエレベーターはもう動いている、八時十五分過ぎ位である。
 七階で降りて、懐中から鍵を出してホトトギス発行所のドアを開けて内にはいると、スチームはまだ通っていないが、鉄骨に昨日のぬくみが残っていて何所となく暖かい。
 四隣の部屋はまだ静かである。昨日帰ったあとにドアの穴から投げ込まれた郵便物が沢山ある。取り敢えずそれを整理する。それから袴《はかま》をぬいで、鍵だけを袂《たもと》に入れ、再びドアをしめて便所に行く。
 便所には女の掃除人が今掃除をはじめたところである。石鹸の汁みたようなものを白い化粧れんがの敷いてある上に流し、ごしごしと磨きはじめる。私はだまって便所の中にはいる。
「おはよう。」という声がする。男の声である。
「おはようございます。」という声がする。これは掃除している女の声である。それから二、三言浮世話をして男は出て行く。小便をしたものであろう。この男の姿は見えないが三菱地所部に使用しているものか、若《もし》くはどこかの事務室の小使でもあろうか。
 私はこの便所でゆっくりと用をたしていると、忽ち隣の便所の戸をはげしくたたいて、甲高いヒステリックな声で、
「上《あが》ってしてはいけません、下《お》りてなさい、下《お》りてなさいってば。」怒鳴る者があった。これはかの「おはようございます。」と男にやさしい声を掛けていた掃除婦の声であることが分った。
 上へ上《あが》ってしてはいけないということは(それはこのビルデングの開館した初めに、チャンとこの便所のドアに張りつけてあった禁則であった。)わかっている筈なのに、だれかが日本便所のように上に上ってしていたものと見える。
 女は寒い時分でも額に汗を流さんばかりに忠実に掃除をしている。かつて当事者の話を聞いた事がある。それは、「この便所も少し油断をするとすぐきたなくなる。不浄を周囲に垂らす者がある。たまには落書をするものがある。又御苦労にも便所につるしてある紙をまるめて穴の中にごし/\突っ込んでいる者などがある。併しそれをとがめるよりも、先に立ち先に立ちしてこちらで清潔にする。そうすると遂にはいたずら心を止めるようになろう。」と。掃除婦の忠実な掃除っぷりを見ると、いつも私はこの当事者の話を思い出す。
 朝早くまだ掃除婦の来ない時か、もしくは昼間、掃除婦の遠ざかっている時に便所にはいると正に驚くべき現象を見ることがある。それはどの便所も/\悉く黄色いものがぷか/\と浮いていることである。ただちょっと水を出して流すだけの手数をせずに立去る人の心を考えさせられる。
 私はここを出て、再びわが事務所のドアを鍵で開けてはいる。部屋にはもうスチームが通って愈々《いよいよ》暖かだ。事務員もそろ/\来る。四隣の室にも人声、物音が聞こえはじめる。そろ/\とビルデングの活動がはじまりかけたのである。
 やがて集配人が肩に掛けている鞄にはみ出すようにつめ込んだ郵便物を配達して来る。これ等の集配人は丸ビルのみを受持つものであるそうな。この丸ビルには一千に近い事務室がある。これを平地に延べて見たらば先ず一千戸ある町である。それに配達する郵便物は可なりな分量のものであろう。そこに配達する集配人も特別な人を要するわけである。
 最前から電話の鳴り続けている部屋がある。そこの事務員はまだ誰も来ないものと見える。
 隣室にはタイプライターを打つ音が響きはじめる。
 中庭を隔てて向う側のある部屋の窓には人顔がうつる。そこは昼間でも明るく電灯をとぼしている歯医者である。椅子にもたれて歯の治療を受けているものがある。医療器械を掃除している女の助手がある。
 その上の部屋の窓はカーテンが下りたままになっている。そこは球突きである。朝遅いのも道理である。

    能舞台

 丸ビルの廊下は人通りが多い。この廊下は往来も同じことである。人々は勝手に往来することが出来る。寄付を強要するもの、無心をいいに来るものなどが、それ等の人々の中に交っている。一時、『あめを買って下さい。』といって来る朝鮮人がよくあったが、この頃は余り見ない。
『ネクタイは入りませんか。』といって来る女学生のような服装をした物売りがよく来る。それに何々写真帖とかいうものを買わんかといってはいって来る洋服の紳士?がある。国粋何々会の会長と名乗る長髪の恐ろしい人も来る。それにわがホトトギス発行所に特別な訪問客が来る。一時は七、八人の来客が詰めかけて(それが各々違った種類の来客で)応対に忙殺されることがある。
 その中で俳句会を開くことがある。よく斯《こ》んなそう/″\しい所で俳句が作れるものだと怪しむ人があるが、なれるとそうも感じない。
 俳句会というと畳の上に座ってするものという習慣であったのが、いつの間にか椅子に腰掛けてするものになった。これはもう十年この方の事である。それに会社官庁のひけ時に集まって夕飯まで(二時間か三時間の間)に会を終るという事は、丸ビルにホトトギス発行所を置いた時からはじまったことである。
 ホトトギス発行所でも規定の四時までは事務を取っている。事務員が帰ってから、室の一隅に備えてある畳椅子を取り出し、総計で二十個程の椅子を並べ、この一室は忽《たちま》ち俳句会場に変る。
 鉄道協会とか、電気|倶楽部《クラブ》とかその他丸の内所在の建物で俳句会の催される時も、大概四時五時頃から七時頃までの間である。そうして何《いず》れもテーブルを囲んで椅子にもたれて作る。
 鉄道協会の俳句会の席上であったか会が終って多少余裕の時間のあった時の雑談に、
「ビルデングの最上層に能舞台を作って、そこで演奏し度いものですという事を観世喜之氏がいったことがあります。」と一人の人がいった。
 私は面白いと思ってその話を記憶している。現に丸ビルのルーフなどは広大な場所が空《むな》しく空《あ》いている。そこに能舞台を作って、俳句会と同様の時間位で能楽を催すという事は、事務所のひけ後、夕飯までの時間を利用する一つの娯楽機関となるであろう。能楽は強《し》いても人に見せる必要がある。一般にその面白味をわからせてやるようにすることは一種の善根功徳である。
 今こんなことをいうと一つの空想談のように聞こえるが、必ずしも空想談ではあるまいと思う。
 現にホトトギス発行所がこの丸ビルの一室に陣取るという事は、あまり突飛なこととして、初めは人人の嗤笑《ししょう》を受けた。併し今は、私の和服がこの建物と不調和と感じない如く少しも不調和ではなくなった。この丸ビルの一隅にホトトギス発行所のあるという事が当然過ぎる程当然な事のように思えて来た。ここで俳句会の開かれるという事もまた当然過ぎる程当然なことのように思えて来た。
 震災で宝生《ほうしょう》舞台の焼けたということは、報知講堂で宝生流素謡会を開かしめるようになった。今は誰もそれを怪しまぬではないか。
 それのみならず、この丸の内の各ビルデングではそれぞれ娯楽機関が設けられて、囲碁、将棋、謡曲、和歌、俳句等、各好むところの集団を作って、各々日に何回というように会合している。
 永楽ビルデングの最上層は日本間が設けられて、そこに囲碁の音が響き、謡のけいこの声が漏れる。銀行集会所の最上層もその通りである。今建ちつつある電気倶楽部には更に完全した設備の日本間が設けられるという事である。それ等の日本間が鉄骨の建物の中の一部分に存在しているという事は少しもおかしくない。遠からずこの三菱村のどの建物にも必ず存在する事になるかも知れぬ。今はエレベーターで最上層に上ると突として日本間があることが不思議なことのように思えるが、それも暫くの間である。時の流れは不思議なものをも不思議で無くしてしまう。丸ビルのルーフに能舞台が出来たところでやがては少しも突飛なことでなくなる。

    帝劇

 日日《にちにち》、報知の二大新聞が街を隔てて相聳《あいそび》えている。それに近く東京朝日も時事も宏壮な家屋を新築した。大きな新聞社は皆丸の内に集まって来る勢いが見える。
 夜遅く帝劇を出て有楽町駅まで歩くと、おびやかさるるのは日日や報知の自動車が翌日の新聞を満載して社の中から出て来る事である。各階のどの窓にも電灯が明るくともってその中には人の活動している様が想像される。それをうかうか眺めながら通っていると、警笛を鳴らして忽ち自動車が家の中から現れて来る。それが往来に来たと思うとまっしぐらに走り去る。その自動車に驚いて飛びのくと、今度は人を乗せた自動車が一方からやみを突いて来る。そのやみの中に立っている私は魂をひやしてまた片方に飛びのく。その後ろからも後ろからも自動車が来る。いずれも全速力で来る。夜ふけたこの辺は昼間の雑踏の時よりもなか/\に肝を冷やす事が多い。
 その路傍の暗い所に薄暗い灯をともした支那そばの店がある。其店は荷車の上にこしらえられたもので、のれんが垂れ下っている。中に二、三人首を突っ込んでいる。暖かそうな湯気の中にその横顔が見える。
 有楽町駅の這入《はい》り口《ぐち》にも小さい店のおでんやがある。そこにも又二、三人の人が暖かそうにおでんを食べている。
 有楽町駅に上って眺めると、帝劇の屋根の上には電灯が沢山にともっていて、そこが歓楽の境であることを思わしめる。震災後屋根の上の翁の像が除かれて、特に帝劇という異色を認むるものがなくなったが、夜になると、この電灯が沢山ともっているという事だけでも、せめてそこが劇場であることを思わしめるに足る。
 今まで見て居った芝居の事を思うて見るが、何も頭に残って居らぬ。ただ眼が疲労を感じて痛むばかりである。
 今から一五、六年前に帝劇が工事を起して、鉄をたたく鎚の音が盛んに響いている時分、私は或人に案内せられてその中にはいって見た。あぶない足場を渡りながら、およそこれが舞台、これが楽屋という説明を聞いた。そうしてそこを出てすぐ隣の女優養成所にも案内せられた。そこで女優の舞踊や芝居のおさらえを見た。森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、鈴木徳子などという名を覚えた。それらの人々は何れもまだ二十歳ばかりの娘盛りであった。
 それから森律子は同郷の森肇氏の令嬢というので、二、三度逢った。それに鈴木徳子には私の友人が知り合いであったので二、三度引き逢わされた。
 帝劇の工事が竣成して花々しく開場した時には私も賓客の一人として招待された。赤いじゅうたんをしき詰めた階段の上を皆が恐る恐る踏んだ。中に物なれた素振りで平気で闊歩するらしく見える人もひそかに
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