逓信省《ていしんしょう》や農林省や中央会議所や印刷局やの前を通って又電車道に出ると同じくバラック建の大蔵省や内務省がある。総てこれ等のバラック建の諸官省は広野の中の馬小屋のようだ。ただヒン/\という鳴き声を聞かぬのと馬糞が無いだけだ。
併しこの諸官省は総て桜田門外に移転される事に内定していると聞いた。諸官省が、今の司法省と電車道を隔てて一所にかたまって立派な建築をするとなれば壮観であろう。
併しそのあとが問題だ。その馬小屋を取りのぞけばあとはそのまま広野である。丸の内は昔からお城とお濠と広野――草原――がある事に相場がきまっていた。矢張り広野のままにして置くのもよかろう。
が、又九階八階のアメリカ式のビルデングが立ちふさがりつつある三菱村の勢力が、ここまで延びて来てこの界隈《かいわい》一帯に大ビルデング街となるかも知れぬ。
東京駅を正門として、丸ビル等を玄関として、それから左翼に延びつつあるビルデング街、また右翼にもだんだん建ち連なろうとする大建築、それ等から推しはかって見るとこの一帯も長く広野としての存在は許さないであろう。
今の丸の内は大きなビルデングが目覚しく突っ立っている。また現に突立ちつつある。八重洲ビルデングだとか昭和館とかがその一例である。けれどもそれ等の外は空地がまだ相当にある。またバラック建の粗末な建物がある。ガードの下に巣くうている小店もある。今の丸の内の文明は先ず新開町の田圃の中に建物がぼつ/\建ちはじめた位の程度である。これを立派な町に仕上げて、新丸の内街を作り上げるのにはなお相当の歳月を要するであろう。
一時間ばかり自動車におびやかされながら私はトボ/\歩いてまた丸ビルに帰った。
薄紅梅
十一時半になると丸ビルの地階、一階、九階の食堂が皆開く。一階の西北隅の竹葉の食堂にはいる。まだ誰も客のいないテーブルの一つに陣取る。
ここの壁や柱には万葉の歌が沢山に書いてある。見るともなしにそれを見る。
[#ここから2字下げ]
誰か園の梅の花ぞも久方の清き月夜にこゝだ散り来る
ほとゝぎす来啼きどよもす橘の花散る庭を見む人や誰
天の川霧たちわたり彦星のかぢの音聞ゆ夜の更け行けば
今朝啼きて行きし雁金寒みかもこの野のあさぢ色づきにける
あが宿の秋萩のへに置く露のいちじろしくもあれこひめやも
[#ここで字下げ終わり]
率直なる感情を高朗なる調子でうたう万葉の詩人をなつかしく思う。柱の下の瓶には薄紅梅が生けてある。その薄紅梅の花を見ると平安朝の大宮人を連想する。
海上ビルデングの建物が行幸道路を隔ててそびえている。すぐ近くには郵船ビルデングの大きな建物がのぞいている。
先刻見た古い地図の事が思い出される。それは寛永、元禄、天保、文化、嘉永等数枚の丸の内の地図であった。
その地図を見ると、古くからこの丸の内は大名屋敷がかず多く並んでいたものと見える。その屋敷も時代時代によって人が変っておるが、ただ変らぬのは鍛冶橋内、即ち今の東京市庁のあるあたりが土佐と阿波の藩邸であったことと今の鉄道省の敷地のあたりが細川越中守の邸であったことである。その他大藩の邸もあるにはあったが大概皆移動している。
わが丸ビルの所は寛永年間に松平新太郎の屋敷に当り、元禄年間は松平内蔵の屋敷と戸田兵部の屋敷に当り、文化年間は溝口駒之介の屋敷に当り、嘉永年間は織田兵部の邸に当っていたようである。
* * *
六十銭のうなどんの食券を女中に渡す。
* * *
その一つの大名屋敷の大いさは今の丸ビルよりはなお大きかったらしい。そうすると土塀か何かをめぐらしたその大邸宅が並んでいたこの丸の内は夜にでもなったら定めて淋しい事であったろう。
その一つの邸のうちには勤番長屋もあったろう。勤番には妻子を連れたものもあろう。又中間若党の類《たぐい》も相応にいたろう。茶坊主、小姓|乃至《ないし》奥女中の類も沢山にいたろう。又家老その他の諸役人もいたろう。そうして大名は芝居でするように、厚座蒲団の上に座ってかたわらに脇息《きょうそく》を置いて澄ましていたろう。併しそれ等の人間は皆今の世の人のように、欲望、葛藤、術策、迷い、あきらめ等の渦の中にあったろう。今の世の姿そのままをそこに描き出したような世の中に住まっていたろう。人々の嫉妬、排他、小智、頑冥等は今目のあたり見るところと何の差異も無かったろう。そんな世界がくりかえし巻きかえし展開せられ閉じられ、展開せられ閉じられして今日に及んで来たものであろう。
それから又そのいつの時代を切り離して見ても、その時代の人はその時代の文明を一番立派なものとして賛美していたろう。たとえば今博物館内の表慶館に並べてあるような贅沢《ぜいたく》の限り
前へ
次へ
全13ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング