降になって来ると、止むを得ずカラコロ/\党になる。実際高下駄で石の階段を上り下りするのはあぶない。それにアスファルトの上などではすべって剣呑《けんのん》だ。それに第一ビルデングに上る時分などには一々上草履にはきかえねばならぬので不便だ。矢張り靴が便宜だ。一つ和服に長靴をはく事にしようかと思っているがまだ決行せずにいる。
 雪駄もだん/\改良される。丸ビルの一階の阿波屋で売っておるものなどの中には、だん/\小雨などにははいても差支《さしつかえ》ないものが出来て来るであろう。ビルデング通いの者の実際の必要から迫られて工夫して行くであろう。
 必要! その事が種々の工夫ともなり発明ともなり、又ついに新しい調和ともなって現れて来るのである。
 丸の内一帯の新文明?はかくの如くして※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんじょう》されて来るのである。和服に長靴を穿いているうちには新工夫が出来るかも知れぬ。
 丸ビルにはいって敷煉瓦《しきれんが》の上を辷《すべ》らないように一分きざみに歩いて、漸く下足預かり所に行って上草履にかえる。そうして七階の一室におさまっていると、暴風雨の様子は更にわからない。時々雨がざあ/\と窓のガラスに降りかかることがある位で、風などはどこを吹いているか一向にわからない。
 室内には仕事に余念がないところへ、人がはいって来る。そうして表は大変な暴風雨だという。成程最前コウモリ傘をへし曲げられそうになったのを僅かにこらえて来た時のことを思う。向うを見ることも出来ず傘をつぼめて横しぶきの雨をよけていると、電車が来る、自動車が来る。漸く命がけでこの丸ビルに辿《たど》り著《つ》いた時のことを思う。
『相変らず吹いているか。』
『滅茶苦茶に吹いている。』
『そんなにぬれたのは傘をささなかったのか。』
『傘なんかさせるものか。』
 そういった友達も暫くして、この室内の空気にならされて、風雨の事は忘れ去ったものの如く談笑に余念がない。そこへまた別の友達がはいって来る。その友達もまた風雨になやまされたらしい。また一時暴風雨の事が話題になる。
 併しその友達もすぐ風雨の事は忘れたようになってまた談笑に余念が無い。
『まだ降っているだろうか。』
『さあ。』
『もう風は止んだのだろう。』
『そうさなあ。』
 暫くしてからそんな事を話しているうちに忽ちピカッと光ったと同時に鳴りはためく音が聞こえた。それは光ると同時に聞こえたのであるから余程近くであろうと想像したが、併しその音はあつぼったいものを隔てて聞くようであった。この鉄骨のビルデングでは雨風の音が聞こえぬばかりか雷霆《らいてい》の響きさえそれ程に響かない。併し雨風が止んでいるどころか一層猛威をたくましくしていることは漸くこの雷霆のはためきで想像された。

    蝶

 丸ビルにいると、自然現象にはうとうとしくなる。雨が降り雪が降ること位は、窓ガラスを透しても知れぬことはない。併しそれとても十分にわからぬ時がある。(私の室から中庭ばかりを眺むるようになっているのである。)雨は降っていないと心得て表に出ると、ポチポチと落ちている事がある。
 その他雷霆のひらめく時位は漸くわかる。
 夕焼けの雲が赤くなっているのは、九階(精養軒のある所)の屋根の上の僅かの空でそれと知る。
 従って詩的材料には余りぶっつからない。
 鳥さえ余り眼に入らない。
 時には飛行機が飛ぶ。その爆音が聞こえるので窓に首を出して見ると、大空近く飛行機の飛んでいるのが見える。
 時には飛行船も来ることがある。魚とも鳥ともつかぬようなものが、すぐ丸ビルの屋根の上近くを過ぎていることがある。
 蚤《のみ》もおらぬ、蚊もおらぬ。併したまには蠅が一匹いることがある。七階の上層に蚊は飛んで来ないが、蠅は下界から飛んで来たのであろうか。地下室の食堂の野菜の洗場がここから見える。何だかきたなそうな模様であるが、あの辺から蠅が天上して来るのか。それとも人の背にとまってここまで来たものか。尤《もっと》もそれも長くはいない。一日二日居ってもう居なくなる。
 鼠がいたのに驚かされた。それは私の部屋では無い。八階に用事があって七階の階段を上っていると、瓦斯《ガス》の鉄管の後ろの方に、隠れ顔に大きな鼠がいた。すべて白く塗ってある鉄の壁の中にどうして隠れ場所が見つかろう。かれはまご/\してその鉄管のかたわらを上ったり下ったりして、途方に暮れている容子《ようす》であった。私は珍しくて暫く眺めていたが、鼠も長い尾を上げたり下げたりして、私の方を眺めているばかりで、果てしが無いのでそのまま八階に上って行った。
 一階の森永の男が三、四人表に出て、頻《しき》りに大地をぶっているので何事かと見たら、鼠とりにはいっている鼠をそれから出して逃
前へ 次へ
全13ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング