るのである。

    三十年前

 明治の三十五年頃、私は神田の猿楽町に住まっていて、屡々《しばしば》用事があって麹町の内幸町に行った。竹橋を渡って和田倉門をはいり、二重橋前を桜田門に出で、それから司法省の前を通って行くのであるが、ゆる/\歩いていると一時間では行けなかった。人力車に乗っても足の弱い老車夫だと相当に時間を費した。
 その頃日比谷はまだ公園にならず、草の生えた空地であった。練兵はもうやらなかったが、練兵場の面影がまだそのままに残っていた。和田倉門外も大概空地で、僅かに明治生命と商業会議所と今の一号館と二号館があるばかりであった。三菱ヶ原の四軒長屋と称《とな》えた頃であとは狐狸の住んでいそうな原であった。中には大名屋敷であった時分の築山が、頽廃《たいはい》したままで残っていたりした。有名なお艶殺しのあったのもその時分であった。
 その頃は品川から浅草迄通っている鉄道馬車があるばかりであった。急ぐ時でも人力車より早いものは無かった。その人力車も梶棒に両手を合わせて、よっちら/\曳く老車夫が多かった。又乗る客も今の様には急がしくなかった、私が内幸町に通う時でも、そこで用事をすませて帰って来れば、それで一日の用事は済んだ。
 或時一人の老車夫の俥《くるま》に乗って、道々その身の上話を聞きながら行ったことを記憶している。ゆっくり/\車をひいて、身の上話でもする老車夫は、今は春の日永のいなか道に見出す位のものであろう。いなか道でも自動車のいつ驀進《ばくしん》して来るかわからぬところではなか/\油断がならぬ。濠端《ほりばた》の柳の下を急がず騒がずひいて行く老車夫の車が、ただ一台あるばかりの光景を想像して見ると、如何にのん気な悠長な画図であったかよ。
 その時分の丸の内はただ暗く静かに、又さびしく物騒な天地であった。夜分などはこの明治生命の前を通ると、向うは真暗な原っぱで、ただ大空に星が輝いているばかりであった。今の東京駅のあたりも闇の続きで、その向うに僅かに京橋辺の灯が見えた。
 やがてぼつぼつと家が建って、その四軒長屋の間々が建てふさがるようになって、俗にこれを「一丁ロンドン」と呼ぶようになった。仲通り一帯が建ち並んだのは四十四、五年の頃であるとか。
 仲通り一帯の多くの建物にははいり口が沢山ついていて、そして或会社なり事務所なりは、天辺《てっぺん》の部屋までその会社や事務所で占領して、ほかとは全然区別していなければ通用しなかった。これは大冠木門《おおかぶきもん》を有し高い土壁をめぐらした昔の士族の習慣が抜けなかったためであろう。それが大正三年に二十一号館が出来るようになって、はじめてアパートメント式になり、つづいて大正六年に海上ビルデングが出来て更に発達した。
 大正十二年、丸の内ビルデング即ち丸ビルが出来て、この丸の内の空気に一大変革をもたらした。
 丸ビルの食堂、売店には沢山の女給、女事務員がおる。それ等には美人が多いとの事であるが私は詳しくは知らぬ。ただ夏になると、六階、七階、八階の洗面所が中庭を隔てて私の部屋から見える。その洗面所には鏡が連《つら》なってかかっている。その鏡の前にはそれ等の女群の一隊が列をなしている。そうして厚ぼったく塗った白粉《おしろい》の上に更に白粉を塗っている。周囲には頓著《とんちゃく》なく魂は鏡の中に打ち込んで、いつまでも/\塗っている。中には肌をぬいで襟首を塗り立てているものもある。中庭を隔てて遙かに眺めるわれ等の眼にはいずれもただ白く美しい人である。成程美人が多いわいと合点《がってん》する。
 熱湯がほしければ湯沸場に取りに行く。お化粧がしたければ洗面所に行く。すべてが公開で何の障壁もない。
 夜になると、各階の窓には明るく火がともる。これは丸ビルばかりではない。郵船、海上その他のビルデングもその通りである。三十年前ただ真暗な原っぱであった所が今は灯火の海である。

    雨

 雨風の烈しい時は、東京駅から丸ビルに行くまでが大変である。大きな建物がある間を風は吹く。殊に東京駅にぶっつかった風は渦巻きを起こして、どちらの方向から吹くのか、見極めがつかなくなる。されば、雨風の烈しかった後では、途上に雨傘の破れたのが打っちゃってあるのを見る事が屡々《しばしば》である。僅《わず》か東京駅から丸ビルまでの途上に、四つも五つも打っちゃられた雨傘があるのを見た事がある。
 雨の日にはカラコロ/\と石段を駆け上り駆け下りるわが高下駄党の多いことは格別である。なくなった高橋駅長が、『あのカラコロカラコロには困る。』とかいったという話を聞いたことがあるが、困ったところで泥濘《ぬかるみ》が往来に存在している間は仕方がない。和服が全廃されない限りは仕方が無い。私は少々な雨なら雪駄《せった》で辛抱するが、大
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