靴のよごれを気にした。
「頼朝」と題する新作物(それはたしかには覚えぬ。或は間違っているかも知れん。)は余り面白くもなかったが、それでも美しい建築と、大がかりの舞台装置とは人目をひいた。
爾来《じらい》毎月案内を受けて、殆ど毎回のように私はこの帝劇を見物している。そうして梅幸や宗十郎などが漸く老いて、その梅幸の子の栄三郎や宗十郎の子の高助や田之助が一人前の役者になっているのを見た。鈴木徳子はいつの間にやら舞台から消えて沢村宗之助の女房になっていることも知った。そうしてその宗之助や栄三郎が早く鬼籍に入った事も知った。その宗之助と徳子の間に出来た新しい宗之助の子方もはや屡々《しばしば》見た。
外の芝居は余り見ないが、ただ帝劇だけはよく見る。そうして毎回見ている時には、多少の興味を覚えるが、一旦そこを出て表に立つと、今何を見ておったのかさえもう覚えておらぬ。ただ眼が疲労して痛みを感ずるばかりである。そうして自動車に脅かされながら、漸く有楽町駅にたどりつくのである。
翁の像
京阪地方から上京する旅客は、横浜を過ぎて大森あたりから、漸く帝都に近くなったという感じがするであろう。しかしながらわい小な家屋が乱雑に建っておるのを見ては、これが帝都かという浅ましい感じもまたしないことはなかろう。殊に芝浦あたりからのバラック建や、その間に残っている廃墟のような煉瓦の堆積を見ては、震災のあとのいつまで斯《か》くの如きかを嘆かわしく思うであろう。
それが漸く新橋を過ぎて、わが丸の内にはいるとはじめて面目が改まって、やや帝都の帝都らしい感じがして来るであろう。
比較的宏壮な建築物が整然としてある。今までに見て来たようなわい小なものとは選を異にしている。それ/″\の建物の屋根は大空に聳《そび》え立っている。
高架鉄道になった今日から見ると、是等の建築の屋根が一番問題になる。それ等の旅人はもとより、日々通勤する人(遠くは逗子、鎌倉より、近くは大森、品川より)の眼を知らず識《し》らずの間に楽しませるものは、これ等の屋根の形状である。千篇一律のものでは飽く。俗悪怪奇なものは厭《いと》わしい。丸ビルの如き切り取ったような四角のものもあってよかろうが、又|参差《しんし》として塔の林立せるが如きものもほしい。それにしても、帝国ホテルの屋根は矢張り好もしい。屋根の中央に突立った棒の尖にあるものは、何にかたどったものか知らぬがただ面白い。私の眼には意味が無く面白い。又度々引合いに出すが帝劇の屋根は翁の像のあった時代がよい。何故に震災後あれを撤去したのであろう。震火災に破損したためであろうが、何故に復旧して建てないのであろう。西洋建物にああいったものは不調和だという議論があっての事か。それなら第一あの舞台で在来の歌舞伎劇をやるのがおかしいという事になる。あの舞台に花道がとりつけてあるのがおかしいという事になる。第一在来の役者が演戯するのがおかしいという事になる。内部に平気でそれ等のものを採用して置いて、外部に翁の像だけがおかしいというのは頗《すこぶ》る不合理なことである。建築の上にもどし/\斯《かか》る大胆な試みを敢てして、単調を破るべきである。折角丸の内に建ち並んでいる屋根のうちで異彩を放っていたものを、一朝にして取り除いたことは誠に残念な事である。
上野から電車で来るにしても、西も東も見る限りバラック建の中を通って来て、突として丸の内に入ると、はじめて宏壮な建物を迎えて、何となく愉快な感じがするであろう。(宏壮な建物が櫛比《しっぴ》してあるといい度いが、場所によるとそれ程にはいかぬ。上野からはいって来た方面はむしろ歯が抜けたように立っているという方が適切である。)
プラットホームに立って、顧みて日本橋、京橋方面を見ると、そこにも三越や、三井銀行や、日本銀行や、千代田ビルデングや、第一相互保険ビルデングやが、バラックの中に棒杭のように突っ立ているのが見える。遠からずそれ等の高層建築は垣の如く建ち並んで、わが東京もやがては欧米の都市を見るようになるであろう。丸の内に少しばかり建ち並んでいる建築を珍しそうにいうのも、今暫くの間であろう。
今遠く永田町に建っている議事堂の鉄骨を眺めると、何となく心強いような感じがする。
現在の東京はまだ震災のあとがまざ/\と残っていて、それ等の建築も上京して来た旅人の心を楽しまするには足らぬであろう。けれども汽車が東京駅に近づくに従って、その汽車に或は後《おく》れ或は先立ち、併行して突進んでいる幾多の電車が、悉《ことごと》く溢れるような人を満載していて、それ等の人は、東京駅に著くと、一時に川を決したように流れ出る容子《ようす》を見ては、たのもしい心を起さずには置くまい。それ等の人の個々の力はやがて新東京を建設す
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