。」と一人の人がいった。
私は面白いと思ってその話を記憶している。現に丸ビルのルーフなどは広大な場所が空《むな》しく空《あ》いている。そこに能舞台を作って、俳句会と同様の時間位で能楽を催すという事は、事務所のひけ後、夕飯までの時間を利用する一つの娯楽機関となるであろう。能楽は強《し》いても人に見せる必要がある。一般にその面白味をわからせてやるようにすることは一種の善根功徳である。
今こんなことをいうと一つの空想談のように聞こえるが、必ずしも空想談ではあるまいと思う。
現にホトトギス発行所がこの丸ビルの一室に陣取るという事は、あまり突飛なこととして、初めは人人の嗤笑《ししょう》を受けた。併し今は、私の和服がこの建物と不調和と感じない如く少しも不調和ではなくなった。この丸ビルの一隅にホトトギス発行所のあるという事が当然過ぎる程当然な事のように思えて来た。ここで俳句会の開かれるという事もまた当然過ぎる程当然なことのように思えて来た。
震災で宝生《ほうしょう》舞台の焼けたということは、報知講堂で宝生流素謡会を開かしめるようになった。今は誰もそれを怪しまぬではないか。
それのみならず、この丸の内の各ビルデングではそれぞれ娯楽機関が設けられて、囲碁、将棋、謡曲、和歌、俳句等、各好むところの集団を作って、各々日に何回というように会合している。
永楽ビルデングの最上層は日本間が設けられて、そこに囲碁の音が響き、謡のけいこの声が漏れる。銀行集会所の最上層もその通りである。今建ちつつある電気倶楽部には更に完全した設備の日本間が設けられるという事である。それ等の日本間が鉄骨の建物の中の一部分に存在しているという事は少しもおかしくない。遠からずこの三菱村のどの建物にも必ず存在する事になるかも知れぬ。今はエレベーターで最上層に上ると突として日本間があることが不思議なことのように思えるが、それも暫くの間である。時の流れは不思議なものをも不思議で無くしてしまう。丸ビルのルーフに能舞台が出来たところでやがては少しも突飛なことでなくなる。
帝劇
日日《にちにち》、報知の二大新聞が街を隔てて相聳《あいそび》えている。それに近く東京朝日も時事も宏壮な家屋を新築した。大きな新聞社は皆丸の内に集まって来る勢いが見える。
夜遅く帝劇を出て有楽町駅まで歩くと、おびやかさるるのは日日や報知の自動車が翌日の新聞を満載して社の中から出て来る事である。各階のどの窓にも電灯が明るくともってその中には人の活動している様が想像される。それをうかうか眺めながら通っていると、警笛を鳴らして忽ち自動車が家の中から現れて来る。それが往来に来たと思うとまっしぐらに走り去る。その自動車に驚いて飛びのくと、今度は人を乗せた自動車が一方からやみを突いて来る。そのやみの中に立っている私は魂をひやしてまた片方に飛びのく。その後ろからも後ろからも自動車が来る。いずれも全速力で来る。夜ふけたこの辺は昼間の雑踏の時よりもなか/\に肝を冷やす事が多い。
その路傍の暗い所に薄暗い灯をともした支那そばの店がある。其店は荷車の上にこしらえられたもので、のれんが垂れ下っている。中に二、三人首を突っ込んでいる。暖かそうな湯気の中にその横顔が見える。
有楽町駅の這入《はい》り口《ぐち》にも小さい店のおでんやがある。そこにも又二、三人の人が暖かそうにおでんを食べている。
有楽町駅に上って眺めると、帝劇の屋根の上には電灯が沢山にともっていて、そこが歓楽の境であることを思わしめる。震災後屋根の上の翁の像が除かれて、特に帝劇という異色を認むるものがなくなったが、夜になると、この電灯が沢山ともっているという事だけでも、せめてそこが劇場であることを思わしめるに足る。
今まで見て居った芝居の事を思うて見るが、何も頭に残って居らぬ。ただ眼が疲労を感じて痛むばかりである。
今から一五、六年前に帝劇が工事を起して、鉄をたたく鎚の音が盛んに響いている時分、私は或人に案内せられてその中にはいって見た。あぶない足場を渡りながら、およそこれが舞台、これが楽屋という説明を聞いた。そうしてそこを出てすぐ隣の女優養成所にも案内せられた。そこで女優の舞踊や芝居のおさらえを見た。森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、鈴木徳子などという名を覚えた。それらの人々は何れもまだ二十歳ばかりの娘盛りであった。
それから森律子は同郷の森肇氏の令嬢というので、二、三度逢った。それに鈴木徳子には私の友人が知り合いであったので二、三度引き逢わされた。
帝劇の工事が竣成して花々しく開場した時には私も賓客の一人として招待された。赤いじゅうたんをしき詰めた階段の上を皆が恐る恐る踏んだ。中に物なれた素振りで平気で闊歩するらしく見える人もひそかに
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