世話をして男は出て行く。小便をしたものであろう。この男の姿は見えないが三菱地所部に使用しているものか、若《もし》くはどこかの事務室の小使でもあろうか。
 私はこの便所でゆっくりと用をたしていると、忽ち隣の便所の戸をはげしくたたいて、甲高いヒステリックな声で、
「上《あが》ってしてはいけません、下《お》りてなさい、下《お》りてなさいってば。」怒鳴る者があった。これはかの「おはようございます。」と男にやさしい声を掛けていた掃除婦の声であることが分った。
 上へ上《あが》ってしてはいけないということは(それはこのビルデングの開館した初めに、チャンとこの便所のドアに張りつけてあった禁則であった。)わかっている筈なのに、だれかが日本便所のように上に上ってしていたものと見える。
 女は寒い時分でも額に汗を流さんばかりに忠実に掃除をしている。かつて当事者の話を聞いた事がある。それは、「この便所も少し油断をするとすぐきたなくなる。不浄を周囲に垂らす者がある。たまには落書をするものがある。又御苦労にも便所につるしてある紙をまるめて穴の中にごし/\突っ込んでいる者などがある。併しそれをとがめるよりも、先に立ち先に立ちしてこちらで清潔にする。そうすると遂にはいたずら心を止めるようになろう。」と。掃除婦の忠実な掃除っぷりを見ると、いつも私はこの当事者の話を思い出す。
 朝早くまだ掃除婦の来ない時か、もしくは昼間、掃除婦の遠ざかっている時に便所にはいると正に驚くべき現象を見ることがある。それはどの便所も/\悉く黄色いものがぷか/\と浮いていることである。ただちょっと水を出して流すだけの手数をせずに立去る人の心を考えさせられる。
 私はここを出て、再びわが事務所のドアを鍵で開けてはいる。部屋にはもうスチームが通って愈々《いよいよ》暖かだ。事務員もそろ/\来る。四隣の室にも人声、物音が聞こえはじめる。そろ/\とビルデングの活動がはじまりかけたのである。
 やがて集配人が肩に掛けている鞄にはみ出すようにつめ込んだ郵便物を配達して来る。これ等の集配人は丸ビルのみを受持つものであるそうな。この丸ビルには一千に近い事務室がある。これを平地に延べて見たらば先ず一千戸ある町である。それに配達する郵便物は可なりな分量のものであろう。そこに配達する集配人も特別な人を要するわけである。
 最前から電話の鳴り続けている部屋がある。そこの事務員はまだ誰も来ないものと見える。
 隣室にはタイプライターを打つ音が響きはじめる。
 中庭を隔てて向う側のある部屋の窓には人顔がうつる。そこは昼間でも明るく電灯をとぼしている歯医者である。椅子にもたれて歯の治療を受けているものがある。医療器械を掃除している女の助手がある。
 その上の部屋の窓はカーテンが下りたままになっている。そこは球突きである。朝遅いのも道理である。

    能舞台

 丸ビルの廊下は人通りが多い。この廊下は往来も同じことである。人々は勝手に往来することが出来る。寄付を強要するもの、無心をいいに来るものなどが、それ等の人々の中に交っている。一時、『あめを買って下さい。』といって来る朝鮮人がよくあったが、この頃は余り見ない。
『ネクタイは入りませんか。』といって来る女学生のような服装をした物売りがよく来る。それに何々写真帖とかいうものを買わんかといってはいって来る洋服の紳士?がある。国粋何々会の会長と名乗る長髪の恐ろしい人も来る。それにわがホトトギス発行所に特別な訪問客が来る。一時は七、八人の来客が詰めかけて(それが各々違った種類の来客で)応対に忙殺されることがある。
 その中で俳句会を開くことがある。よく斯《こ》んなそう/″\しい所で俳句が作れるものだと怪しむ人があるが、なれるとそうも感じない。
 俳句会というと畳の上に座ってするものという習慣であったのが、いつの間にか椅子に腰掛けてするものになった。これはもう十年この方の事である。それに会社官庁のひけ時に集まって夕飯まで(二時間か三時間の間)に会を終るという事は、丸ビルにホトトギス発行所を置いた時からはじまったことである。
 ホトトギス発行所でも規定の四時までは事務を取っている。事務員が帰ってから、室の一隅に備えてある畳椅子を取り出し、総計で二十個程の椅子を並べ、この一室は忽《たちま》ち俳句会場に変る。
 鉄道協会とか、電気|倶楽部《クラブ》とかその他丸の内所在の建物で俳句会の催される時も、大概四時五時頃から七時頃までの間である。そうして何《いず》れもテーブルを囲んで椅子にもたれて作る。
 鉄道協会の俳句会の席上であったか会が終って多少余裕の時間のあった時の雑談に、
「ビルデングの最上層に能舞台を作って、そこで演奏し度いものですという事を観世喜之氏がいったことがあります
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