断髪の娘は、不意に、天秤棒でお臀《しり》を殴られると、もろくそこへ、ヘタってしまった。
「いたいッ」
娘は、金切声で叫びながら、断髪頭を振り向けて、善ニョムさんを睨《にら》んだ。
「ど、どうしてくれる、この麦を!」
善ニョムさんは、その断髪娘が、誰であるかを見極めるほどの思慮を失っていた。「――さぁこん畜生、立たねえか、そらおめえの臀《しり》の下で、麦が泣いてるでねえか、こん畜生、モ一つ擲《なぐ》るぞ」
善ニョムさんは、また天秤棒を振りあげたが、図々しく、断髪娘はお臀《しり》をなぐられて、まだヘタリ込んだままであった。
「いたい、いたいッ」
十六七の断髪娘は、立派な洋服を、惜し気なく、泥まみれにしながら、泣き喚《わめ》いた。
「誰か来てよう――、この百姓をつかまえてちょうだいよう――」
善ニョムさんも、ブルブルにふるえているほど怒《いか》っていた。いきなり、娘の服の襟《えり》を掴むとズルズル引き摺《ず》って、畑のくろ[#「くろ」に傍点]のところへ投《ほう》り出してしまった。
その夕方、善ニョムさんは、息子達夫婦よりも、さきに帰って何喰わぬ顔して寝ていた。
夜になって、息子が山荘庵の地主から使《つかい》が来て、呼び出されて行ったが、二時間ばかりすると打悄《うちしお》れて帰って来た。
「とっさん、おめえ大変なこと仕出かしたなァ」
息子は枕許《まくらもと》で、嘆息と一緒に云った。
六
善ニョムさんが擲《なぐ》りつけた断髪娘は、地主の二番目娘で、二三日前東京から帰っているのだった。それが飼犬《かいいぬ》と一緒に散歩に出たのを、とっさんに腰がたたないほど、天秤棒で擲られたのだというのだ。
しかし、善ニョムさんはケロリとしていた。
「だけんど、おめえあの娘ッ子が……」
「だけんどじゃねえや、とっさん」
息子は、負けずぎらいな親爺《おやじ》をたしなめるように怒鳴った。
「相手が地主の一人娘じゃねえか」
息子は、分別深く話した。
「地主はスッカリ怒《おこ》っていて、小作の田畑を全部とりあげると云うんだ。俺ァはァ、一生懸命詫びたがどうしてもきかねえ、それであの支配人の黒田さんに泣きついて、一緒に詫びて貰っただ」
傍《そば》で、オロオロしている嫁が云った。
「で、もとどおりになったかいな」
「ウウン、そうはいかねえ、謝りのしるしに榛の木畑をあのままそっくり取上げるちゅうこって、やっとおさめてきた」
「榛の木畑を?」
善ニョムさんは、びっくりして頭をあげた。
「仕様がないじゃないか、とっさん」
息子はおさえつけるようにそう云った。
「いやだ、俺《お》らァいやだ」
善ニョムさんは、子供のように頭をふりながら、向うを向いてしまった。
「そんな駄々ッ子見てえなこと云うんじゃねえ、とっさん」
しかし、善ニョムさんは、頭を振って云いつづけた。――いやだ、いやだ、俺ァいやだ――。
善ニョムさんは、泣声になって喚《わ》めいた。いやだ、いやだ――青い麦の芽達が、頭を振りながら、善ニョムさんの眼前に現われて来た。
「いやだ、俺ァ……、あの麦に指一本でもさわってみろ、こんだァあの娘ッ子を、あいつが麦を踏みちぎったように、あの断髪頭をたたき潰《つぶ》してやる……」――
底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「約束手形三千八百円也」改造社
1930(昭和5)年11月15日
初出:「中外日報」
1930(昭和5)年3月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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