に傍点]って、やがて善ニョムさんは腰で調子をとりながら、家の土橋を渡って野良へ出た。
三
榛の木畑は、榛の木|並樹《なみき》の土堤下に沿うた段々畑であった。
土堤の尽きるはるか向うに、桜に囲まれた山荘庵という丘があった。この見はるかす何十町という田圃や畑の地主は、その山荘庵の丘の上の屋敷に住んでいる大野という人であった。
善ニョムさん達は、この「大野さん」を成り上り者と蔭口《かげぐち》云うように、この山荘庵の主人はわずか十四五年のうちに、この村中を買占めてしまった大地主だった。
「ヨッチ――ヨッチ」
土堤下から畑のくろ[#「くろ」に傍点]に沿うて善ニョムさんは、ヨロ[#「ヨロ」に傍点]つく足を踏みしめ上ってくると、やがて麦畑の隅へ、ドサリと畚《もっこ》を下《お》ろした。――ヤレ、ヤレ――
「お、伸びた、伸びた」
善ニョムさんは、ハッ、ハッ息を切らしながら、天秤棒の上に腰を下ろすと、何よりもさきに青黒い麦の芽に眼を配った。
黒くて柔らかい土塊《つち》を破って青い小麦の芽は三寸あまりも伸びていた。一団、一団となって青い房のように、麦の芽は、野づらをわたる寒風《さむかぜ》のなかに、溌溂《はつらつ》と春さきの気品を見せていた。
「こらァ、豪気だぞい」
善ニョムさんは、充分に肥料のきいた麦の芽を見て満足だった。腰から煙草入れをとり出すと一服|点《つ》けて吸いこんだが、こんどは激しく噎《む》せて咳き入りながら、それでも涙の出る眼をこすりながら呟《つぶや》いた。
「なァ、いまもっといい肥料をやるぞい――」
やがて善ニョムさんは、ソロソロ立ち上ると、肥笊《こいざる》に肥料を分けて、畑の隅から、麦の芽の一株ずつに、撒《ま》きはじめた。
「ナァ、ホイキタホイ、ことしゃあ豊年、三つ蔵たてて、ホイキタホイ……」
一握り二株半――おかみの暦《こよみ》は変っても、肥料の加減は、善ニョムさんの子供のときから変らない――
「ドッコイショーと」
二タうね[#「タうね」に傍点]撒いて、腰を延ばした善ニョムさんは、首をグッと反《そ》らして、青い天を仰いでからユックリもとの位置へ首を直した。
「おや、また普請《ふしん》したぞい……」
フト目に入った山荘庵の丘の上に、赤い瓦の屋根が見えた。
「また俺《お》らの上納米で建てたんだろべい」
四
そう呟《つぶや》いて善ニョムさんはまた向き直って、肥料を移した手笊《てざる》を抱えて、調子よく、ヒョイヒョイと掴んで撒きながら、
「金の大黒すえてやろ、ホイキタホイ」
麦の芽は、新しく撒かれる肥料の下で、首を振り、顔を覗《のぞ》かして、生き生きと躍った。――ホイ、こいつぁ俺がわるかった――善ニョムさんは、首まで肥料がかぶさってしまうと、一々、肥料で黄色くなった掌《てのひら》で、麦の芽を掻き起してやりながら麦の芽にあやまった。
善ニョムさんは、老人のわりに不信心家だが、作物に対しては誰よりも熱心な信心家だった。雲が破けて、陽光が畑いちめんに落ちると、麦の芽は輝き躍って、善ニョムさんの頬冠《ほおかむ》りは、そのうちにまったく融けこんでしまった。
それだから、ちょうどそのとき、一匹の大きなセッター種の綺麗《きれい》な毛並の犬が、榛の木の並樹の土堤を、一散に走ってくるのを知らなかった。
「チロルや、チロル、チロルってば……」
くさり[#「くさり」に傍点]を切らした洋装の娘が断髪を風に吹きなびかして、その犬のあとを追いかけて同じく榛の木の土堤上に現われたのも善ニョムさんは、わからなかった。
赤白マダラの犬は、主人の呼声《よびごえ》を知らぬふりで飛び跳ねながら、並樹土堤から、今度は一散に麦畑の中へ飛び込んで来た。麦の芽は犬に踏みにじられて無惨に、おしひしゃがれ、首を折って跳ねちらかされた。
そんとき、善ニョムさんは、気がついてびっくりした。
「こ、こん畜生め!」
いきなり、しゃがんで土塊《どろ》を掴んで投げつけたが、土塊《どろ》は風の中で粉になってしまった。善ニョムさんは、まったく狂人《きちがい》のように怒り出して、畑の隅へ駈けて行くと天秤棒をとりあげて犬の方へ駈けていった
「ち、ちきしょうめ!」
しかし、犬は素早く畑を飛び出すと、畑のくろ[#「くろ」に傍点]をめぐって、下の畑へ飛び下りた。そしてこれも顔を赤くホテ[#「ホテ」に傍点]らした断髪の娘は、土堤から畑の中へ飛び下りると、其処此処《そこここ》の嫌いなく、麦の芽を、踏みしだきながら、喚《わ》めいた。
「チロルや、チロルや」
五
善ニョムさんは、もう勘弁《かんべん》出来なかった。麦の芽達は、無惨に踏みちぎられて、悲鳴をあげてるではないか。善ニョムさんは、天秤棒をふりあげて、涙声で怒鳴った。
「ど、どちきしょめ!」
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