善ニョムさんはまた向き直って、肥料を移した手笊《てざる》を抱えて、調子よく、ヒョイヒョイと掴んで撒きながら、
「金の大黒すえてやろ、ホイキタホイ」
麦の芽は、新しく撒かれる肥料の下で、首を振り、顔を覗《のぞ》かして、生き生きと躍った。――ホイ、こいつぁ俺がわるかった――善ニョムさんは、首まで肥料がかぶさってしまうと、一々、肥料で黄色くなった掌《てのひら》で、麦の芽を掻き起してやりながら麦の芽にあやまった。
善ニョムさんは、老人のわりに不信心家だが、作物に対しては誰よりも熱心な信心家だった。雲が破けて、陽光が畑いちめんに落ちると、麦の芽は輝き躍って、善ニョムさんの頬冠《ほおかむ》りは、そのうちにまったく融けこんでしまった。
それだから、ちょうどそのとき、一匹の大きなセッター種の綺麗《きれい》な毛並の犬が、榛の木の並樹の土堤を、一散に走ってくるのを知らなかった。
「チロルや、チロル、チロルってば……」
くさり[#「くさり」に傍点]を切らした洋装の娘が断髪を風に吹きなびかして、その犬のあとを追いかけて同じく榛の木の土堤上に現われたのも善ニョムさんは、わからなかった。
赤白マダラの犬は、主人の呼声《よびごえ》を知らぬふりで飛び跳ねながら、並樹土堤から、今度は一散に麦畑の中へ飛び込んで来た。麦の芽は犬に踏みにじられて無惨に、おしひしゃがれ、首を折って跳ねちらかされた。
そんとき、善ニョムさんは、気がついてびっくりした。
「こ、こん畜生め!」
いきなり、しゃがんで土塊《どろ》を掴んで投げつけたが、土塊《どろ》は風の中で粉になってしまった。善ニョムさんは、まったく狂人《きちがい》のように怒り出して、畑の隅へ駈けて行くと天秤棒をとりあげて犬の方へ駈けていった
「ち、ちきしょうめ!」
しかし、犬は素早く畑を飛び出すと、畑のくろ[#「くろ」に傍点]をめぐって、下の畑へ飛び下りた。そしてこれも顔を赤くホテ[#「ホテ」に傍点]らした断髪の娘は、土堤から畑の中へ飛び下りると、其処此処《そこここ》の嫌いなく、麦の芽を、踏みしだきながら、喚《わ》めいた。
「チロルや、チロルや」
五
善ニョムさんは、もう勘弁《かんべん》出来なかった。麦の芽達は、無惨に踏みちぎられて、悲鳴をあげてるではないか。善ニョムさんは、天秤棒をふりあげて、涙声で怒鳴った。
「ど、どちきしょめ!」
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