か?」
 といった。三吉はくらい方をむいたままうなずいた。すっかり夜になって、草すだれなどつるしたどの家も、食事どきの、ゆたかなしずかさにあふれてるようだった。
「まあ、尻を落ちつけるさ――」
 深水が、これも人はいい、のみこみ屋の単純さで、
「――こないだ、きみのおっかさんに逢《あ》ったときも、心配してござらっしゃった。三吉が東京へゆくと申しますが、あれに出てゆかれたらあとが困りますなんてなぁ、きみも長男だからね」
 などという。
「――熊連だってこまるよ。小野も津田もいなくなるし、五高の連中だって、もうすぐ卒業していってしもうしなァ。きみのような有能な人物が、熊本にとどまって、ぜひガンばってくれんことにゃ――」
 けっきょく三吉は、新婚の二人に夕めしもくわせず、夜ふけまで縁さきにこしかけていた。


   二

 家のひさし下に、ひよけのむしろをたらして、三吉は竹のひしゃくをつくっている。縄でしばった南京《ナンキン》袋の前だれをあてて、直径五寸もある大きな孟宗竹の根を両足の親指でふんまえて、桶屋がつかうせん[#「せん」に傍点]という、左右に把手《とって》のついた刃物でけずっていた。ガリ、ガリ、ガリッ……。金ぞくのようにかたい竹のふしは、ときどきせん[#「せん」に傍点]をはねかえしてからすべりすると、雨だれのような汗がボト、ボトとまえに落ちる。――
 せまい熊本市で、三吉も「喰《く》いつめた」一人であった。新聞社でストライキに加わって解雇され、発電所で「労働問題演説会」を主催した一人だというので検挙され、印刷工組合の組織に参加すると、もう有名になってしまって、雇ってくれるところがなくなっていた。仲間の小野は東京へ出奔《しゅっぽん》したし、いま一人の津田は福岡のゴロ新聞社にころがりこんで、ちかごろは袴《はかま》をはいて歩いているという噂《うわさ》であった。五高の連中も新人会支部のかぎりでは活動したが、組合のことには手をださなかった。ことに高坂や長野は、学生たちを子供あつかいにした。彼らは三吉らより五つ六つ年輩でもあり、土地の顔役でもあって、普通選挙法実施の見透《みとお》しがいよいよ明らかに[#「明らかに」は底本では「朋らかに」]なると、露骨に彼ら流儀の「議会主義」へとすすんでいた。
「竹びしゃくなんかつくらんでも、わしが工場ではたらくがええ」
 高坂がそういってくれても、三吉はゆきたくなかった。彼に雇われる以上、彼の旦那|気質《かたぎ》で、おそらく組合のことでも、対等には三吉にしゃべらせないのが眼にみえていたからだった。ほんとに地方はせまかった。一たん浮いてしまったら、土地の勢力と妥協でもしないかぎり、もうからだの置き場所がなくなるのであった。
 ガリ、ガリ、ガリッ……。とたんに三吉はせん[#「せん」に傍点]をほうりだして、家の中にとびこむ。家の前の道を、パッと陽の光りをはじけかしてクリーム色のパラソルがとおってゆく。もちろんパラソルにかくれた顔がだれだからというのではなくて、若い女一般にたいしてはずかしい。乞食のような風ていも、竹びしゃくつくりもはずかしい。
「けがしたかい?」
 そばにならんですわって、竹ばしをけずっている母親が、びっくりしてきく。三吉は首をふって、ごまかすために自分の本箱のところへいって、小野からの手紙などとって、仕事場にもどってくる。――どうして、若い女にみられるのが、こんなにはずかしいだろう?
 手紙をよみかえすふり[#「ふり」に傍点]して、三吉は考えている。竹細工の仕事は幼少から馴《な》れていた。せん[#「せん」に傍点]で竹の皮をむき、ふしの外のでっぱりをけずり、内側のかたい厚みをけずり、それから穴をあけて、柄《え》をつけると、ぶかっこうながら丈夫な、南九州の農家などでよくつかっている竹びしゃくが出来あがる。朝めし前からかかって、日に四十本をつくるのだが、このはずかしさは、馴れることができない。印刷工場で、団体見学の女学生などにみられるときもはずかしかったが、竹細工はもっとはずかしかった。何せみられる方が一人ぽっちであった。いい若いもんが手内職みたいな仕事をしているということもあった。しかし、それがどうして悪いのだろう? 何でこんなにはずかしいのだろう? そしてやっぱり、若い女が前の道を通ると、三吉はいち早く気がついて、家のなかにとびこんだ。
「でもまァ、これでお前がひしゃくをつくれば、日に二円にはなる。たきぎはでけるし、つきあいはいらんし、工場の二円よりかよっぽどつよい」
 倅《せがれ》が何で家の中にとびこむか、わざと知らんふりして、母親はいうのである。二円の利益は母親やきょうだいたちの手伝いもふくめてであるが、母親はなんでも倅の家出をおそれていた。
「そりゃな、東京の金はとれやすいかも知らんが、入りやすい金は出やすいもんだよ。まして月々におくるという金は、なかなかのこっちゃない」
 あがりがまちのむこうには、荷馬車稼業の父親が、この春仕事さきで大怪我をしてからというもの、ねたきりでいたし、そばにはまだ乳のみ児の妹がねかしてあった。母親にすれば、倅の室の隅においている小さい本箱と、ちかごろときどき東京からくる手紙がいちばん気になるのであった。
「――ドイツのね、ヨゼフ・ディーツゲンという人は、やっぱり皮なめし工という、手工業労働者だったんだ」
 しばらくだまっていた倅《せがれ》が、とつぜんそんなこといいだすと、母親は手をやめて、きょとんとした。
「――いえさ、おれのような職人だったんだが、マルクスと一緒にドイツ革命に参加したり、哲学書をかいたり、非常にえらい人だったそうだ」
 母親は、それで見当がついた風で、
「すると、やっぱりシャカイシュギかい?」
 などという。――
 三吉は、ときどき、そのディーツゲンをおもいうかべることで、自分に勇気づけていた。マルクスやエンゲルスとは別個に唯物弁証法的哲学をうちたてたという偉大なドイツの労働者についてくわしくは知らなかったけれど、感じさせた。それはきよらかで、芸術的でさえある気がしていた。ディーツゲンのようにえらくはないにしても、地方にいて、何の誰べぇとも知られず、生涯をささげるということは美《うつ》くしい気がした。そしてこの竹びしゃく作りなら、熊本の警察がいくら朝晩にやってこようと、くびになる怖《おそ》れがなかった。
「しかし、彼女は竹びしゃく作りの女房になってくれるだろうか?」
 そして、またそこへくると、三吉はギクリとする。鼻がたかくて、すこし頭髪のあかい、ひびくわらい声の彼女を、自分のそばのむしろに坐《すわ》らせてみることが、いかにも困難であった。パラソルをみたときのように、家のなかへとびこみたい気がする。しかし、しかし――とボト、ボトと汗を落しながら三吉は思う。彼女は理解してくれるんじゃないだろうか? 三吉はかつて彼女を「ぱっぱ女学生」などと一度も考えたことがないように、こっちが清らかでさえあれば、願いが通じるような気がする――。
「ときにな――」
 竹くずのなかにうずまって、母親は母親でさっきから考えていたらしく、きせるたばこを一服つけながら、いった。
「こないだの、あれな」
「あれって、何だよ」
 ちかごろ三吉は、何かにつけさぐるような母親の口ぶりや態度にあうと、すぐ反ぱつしたくなる自分をおさえかねた。それで、
「ほら、勘さんとこの――」
 と、母親がいった瞬間、夢からさめたようになった。
「おれ、いやだっていったじゃないか」
 しかし倅のつっけんどんな返辞にもさからわず、母親はだまっていま一服つけ、それからまた浮かぬ顔で仕事をはじめている。それが三吉にはよけいうっとうしかった。母親はその縁談をあきらめているのではなかった。警察から「おたずね者」のシャカイシュギになっている倅は、いわば不具者で、それこそ分相応というものであった。ところが、同じ荷馬車稼業をしている勘さんの娘というのは、ちかごろ女中奉公さきからもどっていて、三吉は知っているが、これはおよそくつじょくであった。だいいちに鼻がひくかった。眼も、口も、眉も、からだじゅう、どこにひとつかがやきがなかった。鼻がひくいと、貧乏にも卑屈にも、すべて不感症であるように、三吉には感じられるのだった。
「でもな、おまえも二十四だ。山村の常雄さんだって、兵隊からもどると、すぐ嫁さんもろうた。太田の初つぁんなんか、もう二人も子がでけとる。――」
 母親は、三吉と小学校で同級だった町の青年たちの名をあげて、くりごとをはじめる。早婚な地方の世間ていもあるだろうが、何よりも早く倅《せがれ》の尻におもしをくっつけたい願望がろこつにでていた。
「――牛は牛づれという。竹びしゃく作りには竹びしゃく作りの嫁があるというもんだ。たとい鼻ひくでも、めっかちでも……」
 もうすわっていられなかった。鉈《なた》をとって、つくりかけのひしゃくを二つ三つ、つづけざまにぶちわると、三吉はおもてへとびだしてしまった。
 ――こんなとき、以前の三吉は、小野か津田をたずねていったが、いまはそれもできなかった。町はずれへでて、歩きまわるうち、いつか立田山へきていた。百メートルくらいしかないけれど、樹立《こだち》がふかくて奥行のある山であった。見はらしのきく頂上へきて、岩の上にひざを抱いてすわると、熊本市街が一《ひ》とめにみえる。田圃《たんぼ》と山にかこまれて、樹木の多い熊本市は、ほこりをあびてうすよごれてみえた。裁判所の赤煉瓦《あかれんが》も、避雷針のある県庁や、学校のいらかも、にぶく光っている坪井川の流れも、白い往還をかすかにうごいている馬も人も、そして自分も、母親も、だれもかれも、うすよごれて、このたいくつな味気ない町にしばりつけられてるようにみえた。
「東京へゆこうか?」
 三吉はふところから小野の手紙をだしてみるが、すぐまたふところにいれる。そのハトロン封筒の手紙も、気がすすまないのである。小野は東京で時事新報の植字部に入っていた。小野のほかに、熊本出の仲間であるTや、Nや、Kやも、東京のあちこちの印刷工場にはたらいていた。そして「時事にはいれるようにするから出てこい」と小野は書いているが、「時事はアナの本陣」で、小野は上京すると、同郷のTや、Kや、Nやも、正進会にひっぱりこんだと、得意で書いている。三吉もそこへゆけば正進会員にならねばならないが、それが厭《いや》である。なぜ厭なのか、理論的にはよくわからぬけれど、厭なのである。
 小野の上京以来、東京の空が急にせまくなった気がしている。――このうすよごれた町からほとんど出たことのない三吉は、東京を知らないけれど、それまでの東京からはまだ大学生の田門武雄や、卒業して間がない三輪寿蔵や、赤松克馬や新人会本部の連中がやってきた。彼らはサンジカリズムないしアナルコサンジカリズムの思想をふりまいてゆき、小野も、三吉も、五高の学生たちも、また専売局の友愛会支部の連中も、革命が気分的であるかぎり一致することが出来ていた。ところが東京から「ボル」がいちはやく五高の学生に流れこんでくると、裂けめがおこった。「前衛」とか「種蒔く人」とか、赤い旗の表紙の雑誌が五高の連中から流れこんでくると、小野のところには「自由」という黒い旗の表紙が流れこんできた。三吉はどっちも読んだが、よくはわからなかった。わかるのは小野の性格の厭《いや》なところが、まるでそこだけつつきだされるように、きわだって現われてきたことであった。
 小野は三吉より三つ年上で、郵便配達夫、煙草《たばこ》職工、中年から文選工になった男で、小学三年までで、図書館で独学し、大正七年の米暴動の年に、津田や三吉をひきいて「熊本文芸思想青年会」を独自に起した、地方には珍らしい人物であった。三吉は彼にクロポトキンを教えられ、ロシア文学もフランス文学も教えられた。土地の新聞の文芸欄を舞台にして、彼の独特な文章は、熊本の歌つくりやトルストイアンどもをふるえあがらせた。五尺たらずで、胃病もちで、しなびた小さい顔にいつも鼻じわよせながら、ニヤリ
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