ニヤリと皮肉な笑いをうかべている男だった。
「ホホン、そりゃええ――」
 この「ホホン」というのが小野の得意であった。小男だから、いつも相手をすくいあげるようにして、しわんだ、よく光る茶っぽい眼でみつめながら、いうのである。
「ホホン――、それでわしらの労働者を踏み台にして、未来は代議士とか大臣とかに出世なさっとだろうたい、そりゃええ」
 高坂でも、長野でも、この小男の「ホホン」には真ッ赤にさせられ、キリキリ舞いさせられた。いつも板裏|草履《ぞうり》をはいて、帯のはしをだらりとさげて、それにひどい内股なので、乞食のようにみえる。それをまた意識して相手にも自分にもわざとこすりつけてゆくようなところがあったが、「ボル」が入ってきてから一層ひどくなった。
「ホホン、そりゃええ、“中央集権”で、労働者をしめあげて――」
 ある晩、町のカフェーで、学生たちと論争したとき、そのときは酔ってもいたが、小野はあいてのあごの下に顔をつきだしながらいった。
「――それで、諸君が、レーニンさんになんなはっとだろうたい」
 しかし、つりがねマントの学生たちは、長野や高坂と同じではなかった。“中央集権”是か非か。“ブルジョア議会”の肯定と否定。“ソビエット”と“自由連合”。労働者側では小野が一人で太刀打ちしている。しかし津田はとにかく三吉が黙っているのは、よくわからぬばかりでなくて、小野の態度が極端なうたぐりと感傷とで、ときにはたわいなくさえみえてくるのが不満だった。たとえば議論の焦点がきまると、それを小野の方から飛躍させられて“そりゃァ、労働者の自由を束縛するというもんだ”という風に、手のつけようのないところへもってゆく。学生たちがそれをまた神棚から引きおろそうとして躍起になると、そのうち小野がだしぬけに“ハーイ”と、熊本弁独特のアクセントでひっぱりながらいう。
「ハーイ、わしがおふくろは専売局の便所掃除でござります。どうせ身分がちごうけん、考えもちがいましょうたい」
 高わらいしながら、そのくせポロポロ涙をこぼしている小野をみると、学生たちも黙ってしまう。それで、そのつぎにくる瞬間をおそれて三吉が、小野の腕をささえてたちあがると、
「なにをいうか、労働者の感情が、きさまらにわかると思うとるかッ」
 すごい顔色になって、肩ごしに灰皿をつかんでなげようとする。津田と二人で、それを止めて外へでると、小野はこんどは三吉にくってかかる。――な、青井さ、きみァボルな? え、何故《なぜ》だまっとるな?――。それからとつぜん、三吉の腕にもたれてシクシク泣きだす――。ハーイ、わしがおふくろは専売局の便所掃除でござります。ハーイ。――
 小野が上京したのはそれから間もなくで、三吉にもだまって発ってしまったのであった。小野のうちは父親がなく、専売局の便所掃除をしていた母親は――まるで不具もんみたい、二十七にもなって、嬶《かか》ァもらえんと――といってこぼしていた。三吉と同じように、小野も失業していたが、上京してしまった一ばん大きな原因は「ボル」が侵入してきたからであった。
 ――裂けめだ。何かしら大きな裂けめだ。
 ボルの理論は、まだしっかりつかめぬながら、小野から日ごとに離れてゆく自分を、三吉は感じている。しかもその大きな裂けめにおちこんで、しかもボルの学生たちとは、つまり土地で“五高の学生さん”というような身分的な距離があるのだった。――そしてそうやって、いらいらしていると、たいくつな、うすよごれた熊本市街の風景も、永くはみていられなかった。
「――そりゃァ理想というもんですよ、空想というもんですよ。ええ」
 夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“|来《きた》り聴《き》け! 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子《ガラス》戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川やなどを相手に、高坂がもちまえの、呂音のひびく大声でどなっている。そしてボルの学生たちも、こののこぎりの歯のような神経をもっている高坂との論争は、なかなか苦手であった。そばで一緒にポスターを書いていた五高の福原も、筆をほうりだしてそっちへゆくと、三吉はひとりになってしまう。
「――勿論《もちろん》、貴公らがだナ、ボルだのアナだのと、理想をいうのはけっこうですよ。しかし、しかし――まぁ、わしのいうことをきくがええ、しかしだナ、熊本あたりの労働者というもんは、そんな七むずかしいことはわからんたい。ああ、普選運動がやっと……」
 それを、さえぎろうとして古藤の早口が、
「――理、理想じゃないですよ。げ、げ、現実ですよ。東、東京の労働者……。ア、ア、アナ、アナルコサンジカリズムなんか……」
 と、やっきになっているけれど、彼はひどい吃《ども》りなので、すぐ何倍も大きな高坂の声にかきけされてしまった。
「――だからさ、だからわしは、小野がいるときから、アナだの何だの、支持したこたァないよ。そうでしょう、そうですとも。だいたい諸君は、わしのことをダラ幹だの、女郎派だのというけれどだネ、しかしだネ、じっさい労働者というもんは……」
 硝子《ガラス》戸がガタ、ガタッとあいて、怒った古藤がとびだしてきた。そして入口でせわしく下駄をつっかけると、すぐ近所の自分の下宿へ、庭づたいにかけだしていった。
「――理想はよろしい。アナでも、ボルでもけっこう。だからわしはポスターでも、会場費でも何でも提供している。しかしだね、諸君は学生だ、いいですか、いわば親のすねかじりだ。いや怒っちゃいけませんよ、しかしだネ、いざといって、諸君に何か……」
 さいごに、おとなしい福原も、だまって外へ出ていった。
「ばかづらどもが――」
 三吉がポスターをかいている板の間へ、高坂が、扇子をパチッ、パチッと鳴らせながらでてきた。むかし細川藩の国家老とか何とかいう家柄をじまんにして、高い背に黄麻の単衣《ひとえ》をきちんときている。椅子《いす》をひきずってきて腰かけながら、まだいっていたが、
「なんだ、青井さ、一人か」
 と、気がついたふうに、それから廊下をへだてた、まだ夜業をしている工場の方へ、大声でどなった。
「安雄ッ、武ちゃん――」
 よばれた二人の文選工が、まだよごれ手のまま、ボンヤリはいってくると、
「お前たち、もう今夜はいいから、ポスターをてつだいなさい」
 と、あごでしゃくった。武ちゃんも、安雄も三吉とは知っている組合員であったが、主人の方にだけ気をとられている。
「ずッと、家へもどっていい、夜業は三時間につけとくから」
 のりバケツとポスターの束をかかえて、外へでるとき、主人にそういわれると、二人はていねいにおじぎしている。
「オーイ」
 古藤の下宿の下を通るとき、三吉はどなってみたが返事がなかった。あかるい二階の障子窓から、マンドリンをひっかきながら、外国語の歌をうたっている古藤の声や、福原や、浅川のわらい声が、ずッとちがった、遠くの世界からのようにきこえていた。


   三

「社会問題大演説会」は、ひどく不人気だった。――高島貞喜は、学生たちが停車場から伴ってきたが、黒い詰襟《つめえり》の学生服を着、ハンチングをかぶった小男は、ふとい鼻柱の、ひやけした黒い顔に、まだどっかには世なれない少年のようなあどけなさがあった。
「フーン、これがボルか」
 会場の楽屋で、菜《な》ッ葉《ぱ》服の胸をはだけ、両手を椅子の背中へたらしたかっこうにこしかけている長野は、一《ひ》とめみてたち上《あが》りもしなかった。長野は演説するとき、かならず菜ッ葉服を着るが、そのときは興ざめたように、中途でかえってしまった。前座には深水と高坂がしゃべった。浪花ぶし語りみたい仙台|平《ひら》の袴《はかま》をつけた深水の演説のつぎに、チョッキの胸に金ぐさりをからませた高坂が演壇にでて、永井柳太郎ばりの大アクセントで、彼の十八番《おはこ》である普通選挙のことをしゃべると、ガランとした会場がよけいめだった。演壇のまわりを、組合員と学生が五十人ばかりとりまいているほかは、ひろい公会堂の隅の方に、一般聴衆の三人五人が下足をつまんで、中腰にしゃがんでいる。そしてそんな聴衆も、高島が演壇にでてきて五分もたつと、ぶえんりょに欠伸《あくび》などしながら帰ってしまった。
 じっさい、この「東京前衛社派遣」の弁士は貧弱だった。小さいのでテーブルからやっと首だけでている。おまけにおそろしく早口で、抑揚も区切りもないので、よくわからないが、しかし三吉には何かしら面白かった。ロシヤ革命とボルシェヴィキ。レーニン。ロシアの飢饉と反革命。それから鈴木文治や、アナーキズムへの攻撃。――ことに三吉には話の内容よりも、弁士自体が面白かった。右の肩で、テーブルをおすようにして、ひどい近眼らしく、ふちなしの眼鏡で天井をあおのきながら、つっかかってくる。ところどころ感動して手をたたこうと思っても、その暇がない。――われわれ労働者前衛は――というとき、歯ぎしりするようにドンドンとテェブルをたたく。
 しかし、考えてみればおかしな演説会であった。工場がえりの組合員たちは、弁当箱をひざにのせたまま居眠りしているのに、学生たちは興奮して怒鳴《どな》ったりしている。ひょうきんな浅川など、弁士が壇をおりたとき、喜んでしまって、帽子を会場の天井になげあげて、ブラボー、ブラボーと踊っている。深水や高坂や、組合員たちもだんだんに帰ってしまい、演説会が終ったときは、三吉をのぞくと、学生だけであった。
「そうだな、青井」
 くらい町を、高島をかこんで、古藤の下宿にもどりながら、学生たちのうしろから歩いてゆくと、ときどき、古藤がふりかえって、三吉に同意をもとめるためにふりかえる。こっちの情勢を高島に報告するのであるが、三吉は三吉で、もう今夜の演説会で、「新人会熊本支部」もおしまいだ、などと考えているのだった。
「だから、労働者グループは、いまじゃ青井君一人ぽっちですよ」
 下宿の二階にあがると、古藤にかわって福原が説明している。浅川も、
「印刷工組合は、小野が上京してから、かえってアナの影響がつよくなったようだナ」
 などというのを、古藤たちとおなじ年頃の高島はふりむきもせず、年長者のように、あぐらのひざに肘《ひじ》でささえた顔で、「フム」と、三吉の方だけみつめている。夕方福岡からきて、明日は鹿児島へゆき、数日後はまた熊本へもどって、古藤たちの学校で講演するというこの男は、無口で、ひどく傲岸《ごうがん》にみえた。あつい唇をむッと結んでいて、三吉はゴツンとぶつかるようなものを感じさせる。そのうち、学生たちがまだ彼の演説の内容について、ボルの革命論についてはてしなくいい争っているのに、気がつくと、高島は両手で膝をだいたまま、小さいカバンを枕にして、室のすみに犬ころのように眠っている。気分的なもの、感傷的なものなど、まるでないのが、三吉にはショックだった。
「きみ――」
 やがて、三吉だけがさきに帰ろうとして、梯子《はしご》段をおりかけると、おどり段まで、ふちなし眼鏡がでてきた。
「――きみ、一度東京へ出てみたらいいな」
 三吉はびっくりした。眠っているうち、彼は三吉のことを考えていたのだろうか?
「行くんなら、ぼくが紹介状をかきます」
「はぁ――」
 おのずと年長者へ対するようだった。とつぜんだが、三吉にはわかった。三吉にちゃんとしたボル理論を体得させようというのだろう。小野が東京へでてハッキリとアナーキストとして活動しはじめ、故郷へその影響を及ぼしはじめたのと、その正反対の道なのだ。三吉は梯子段にうつむいたまま、ふちなし眼鏡も、室からさしている電灯の灯に横顔をうかせたまま、そっぽむきにたっていた。――
 東京! 小野にさえぎられた東京に、もひとつの東京が、ポカリとあいたような気がする。ハンチングをかぶったボルは、三吉に新しい魅力であった。東京大森の前衛社! 赤い旗の前衛社! それはどういうところだろう? くらい道を家へ歩きながら想像している。しかし三吉は、高島にむかって、とうとう返辞をしなか
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