白い道
徳永直

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)赤煉瓦《あかれんが》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)熊本|煙草《たばこ》

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(例)せん[#「せん」に傍点]
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   一

 ――ほこりっぽい、だらだらな坂道がつきるへんに、すりへった木橋がある。木橋のむこうにかわきあがった白い道路がよこぎっていて、そのまたむこうに、赤煉瓦《あかれんが》の塀と鉄の門があった。鉄の門の内側は広大な熊本|煙草《たばこ》専売局工場の構内がみえ、時計台のある中央の建物へつづく砂利道は、まだつよい夏のひざしにくるめいていて、左右には赤煉瓦の建物がいくつとなく胸を反《そ》らしている。――
 いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい坂道をおりてきて、鉄の通用門がみえだすあたりから足どりがかわった。門はまだ閉まっているし、時計台の針は終業の五時に少し間がある。ド・ド・ド……。まだ作業中のどの建物からもあらい呼吸《いき》づかいがきこえているが、三吉は橋の上を往復したり、鉄門のまえで、背の赤んぼと一緒に嫁や娘をまちかねている婆さんなぞにまじって、たっていたりする。手を背にくんで、鍵束の大きな木札をブラつかせながら、門の内側をたいくつそうに歩きまわっている守衛。いつも不機嫌でいかつくそびえている煉瓦塀、埃《ほこ》りでしろくなっている塀ぞいのポプラー――。
 みんなよごれて、かわいて、たいくつであった。やがて時計台の下で電気ベルが鳴りだすと、とたんにどの建物からも職工たちがはじけでてくる。守衛はまだ門をひらかないのに、内がわはたちまち人々であふれてきた。三吉はいそいで橋をわたり、それからふたたび鉄の門へむかって歩きだす。――きょうはどのへんで逢《あ》うだろうか――。
 鉄の門をおしやぶるようにして、人々は三つの流れをつくっている。二つは門前の道路を左右へ、いま一つは橋をわたって、まっすぐにこっちへ流れてくる。娘、婆さん、煙草色の作業服のままの猫背のおやじ。あっぱっぱのはだけた胸に弁当箱をおしつけて肩をゆすりながらくる内儀《かみ》さん。つれにおくれまいとして背なかにむすんだ兵児帯《へこおび》のはしをふりながらかけ足で歩く、板裏|草履《ぞうり》の小娘。「ぱっぱ女学生」と土地でいわれている彼女たちは、小刻みに前のめりにおそろしく早く歩く。どっちかの肩を前におしだすようにして、工場の門からつきとばされたいきおいで、三吉の左右をすりぬけてゆく。汗のにおい、葉煙草のにおい。さまざまな語尾のみじかいしゃべりやわらいごえ。「バカだよ、お前さんは」「いたいッ」「何がさ?」「……ちゃんによろしく云っといてねッ」――。
 わらい声の一つをききつけて、三吉はハッとする。おぼえのあるわらい声は思いがけなくまじかで、もう顔をそらすひまもなかった。流れのなかをいくらかめだつたかい背の白|浴衣《ゆかた》地がまむかいにきて、視線があったとたん、ややあかっぽい頭髪がうつむいた。
 ――すれちがうとき、女はつれの小娘に肩をぶっつけるようにしてまた笑い声をたてた。ひびく声であった。三吉は橋の袂《たもと》までいって、すぐあと戻りした。流れのはやさと一緒になって坂をのぼり、熊本城の石垣をめぐって、田甫《たんぼ》に沿うた土堤《どて》うえの道路にでる。途中で流れはいくつにもくずれていって、そのへんで人影は少くなった。土堤の斜面はひかげがこくなり、花をつけた露草がいっぱいにしげっている。
 つれの、桃色の腰巻をたらして、裾《すそ》ばしょりしている小娘の方が、ときどきふりかえって三吉の方をにらむ。くろい、あごのしゃくれた小さい顔は、あらわに敵意をみせていた。女は一度もふりむかないけれど、うしろを意識している気《け》ぶりは、うしろ姿のどこにもあらわれている。裾をけひらくような特徴のある歩き方、紅と紫のあわせ帯をしているすらッとした腰のへん。ときどきつれの小娘に肩をよせてから前こごみになってひびかせる笑い声が、三吉をあわてさせるのであるが、そしてきょうもとうとう土堤道のある地点にくるまで、声をかけるどころか、歩いているかんかくをちぢめることさえ出来なかった。
 彼女たちはそこからわかれている、もっと小さな野良道におりて、田甫のあいだを横ぎりながら、むこうにみえている山裾の部落へかえってゆくのであった。腰のへんまで稲の青葉にかくれながらとおざかってゆく。そして幾まがりする野良道を、もうお互いの顔の表情もさだかでなくなるくらいのところで、女はこっちをふりかえって首をかしげてみせる。それまで土堤道につったっている三吉もあわてて首をさげながら、それでほッとよみがえったようになるのであった。――
 たかい鼻と、すらりとした背。大きすぎる口、うすい眉毛さえが、特徴あるニュアンスになって、三吉の頭に影像をつくっている。そして彼女たちの姿が青く田甫のむこうにみえなくなったとき、しろくかわきあがった土堤道だけが足もとにのこったが、それはきのうもおとといも同じであった――。
 尻からげして、三吉は、こんどは土堤道をあと戻りし、やがて場末の町にはいってきた。足首を白いほこりに染めながら、小家ばかりの裏町の路地《ろじ》を、まちがえずに入ってくる。なにかどなりながら竹|箒《ぼうき》をかついで子供をおっかけてきた腰巻一つの内儀《かみ》さんや、ふんどしひとつのすねをたたきながら、ひさし下のしおたれた朝顔のつるをなおしているおやじさんや、さわがしい夕飯まえの路地うちをいくつもまがってから、長屋のはしっこの家のかど口に「日本友愛会熊本支部事務所」とかいた、あたりには不似合な、大きな看板のあるところへでた。
「おう、青井」
 むこうから、三吉をよぶ声がして、つづけてわらい声がいった。
「どうだったい、きょうは?」
 路地にひらいた三尺縁で、長野と深水が焼酎をのんでいた。長野は、赤い組長マークのついた菜葉《なっぱ》服の上被《うわぎ》を、そばの朝顔のからんだ垣にひっかけて、靴ばきのままだが、この家の主人である深水は、あたらしいゆあがりをきて、あぐらをかいている。
「その顔つきじゃ、あかんな」
 チャップリンひげをうごかして長野がわらった。長野は大阪からながれてきた男で、専売局工場の電機修繕工をしている。三吉たちの熊本印刷工組合とはべつに、一専売局を中心に友愛会支部をつくっていて、弁舌がたっしゃなのと、煙草色《たばこいろ》の制服のなかで、機械工だけが許されている菜《な》ッ葉《ぱ》色制服のちがいで、女工たちのあいだに人気があった。三吉は縁のはしに腰かけ、手拭《てぬぐい》で顔をふいたが、二人のわらいごえにつれられて、まげに赤い手絡《てがら》をかけた深水の嫁さんが、うちわをそッと三吉のまえにだすと、同時にからだをひきながら、ころころとわらいころげた。
「ずいぶん、ごねっしんね」
 低声で嫁さんがいうと、
「え」
 と三吉が、真顔でこたえ、嫁さんがまたふきだすと、三吉も一緒にわらった。
 嫁にきて間がない深水の細君は、眼も、口も、鼻も、そろって小さく、まるい顔して、ころころにふとっていた。何畳だか、一間きりの家の中はよくかたづいていて、あたらしいタンスや紅いきれのかかった鏡台やがあった。
「印刷工組合の指導者、青井三吉も、女にかかると、あかんな、うーん」
 長野がコップをつきつけた。女房に子供もあるがチャップリンひげと、ながいあごをもっているこの男は、そんな意味でも女工たちに人気があった。三吉は焼酎をのみながら、事務的に用件をいった。いいながら自分に腹がたってくる。どうしてもこの男にバカにされてしまう。――用件というのは、東京の「前衛」社から高島貞喜がくるという通知を受けとったこと、その演説会と座談会をやるため、印刷工組合と友愛会支部とで出来ている熊本労働組合連合会の役員たちが宣伝をうけもつこと、高島の接待は第五高等学校の連中がやること等であった。しかし同じ新人会熊本支部員である長野も深水も、この用件にあまり興味をもたなかった。第一に高島が有名でないこと、次に高島がボルだということからであった。
「おあがんなさい」
 深水の嫁さんがしきものをだしてくれた。うなずきながら、足首までしろくなったじぶんの足下をみていると、長野がいつもの大阪弁まじりで、秋にある、熊本市の市会議員選挙のことをしゃべっている。深水はからだをのりだすようにして、
「そりゃええ、パトロンが出来たなら、鬼に金棒さ、うん――」
 ゆあがりの胸をひろげて、うちわを大げさにうごかしている。頭髪にチックをつけている深水は、新婚の女房も意識にいれてるふうで、
「――わしも応援するよ、普選になればわれわれ熊連は市会議員でも代議士でも、ドンドンださんといかん」
 いいながら、こんどは三吉を仲間にいれようとする。
「君ァどうかね? え、わしがパトロンをめっけてやってもええが」
 三吉は早くかえらねばならぬと思っている。専売局の截刻工である深水は、かねてから市会議員などになりたがっていた。しかしまだ印刷工組合に小野鉄次郎がいたころは、彼にしろ長野にしろ、こんなに露骨にはいわない筈《はず》であった。
「高坂が準備してるいうやないか?」
 こんどは長野が三吉をのぞきこんだ。高坂はやはり印刷工組合の幹部で、自分で印刷工場も経営している。一方では憲政会熊本支部にもひそかに出入《でいり》している男であるが、小野、津田、三吉の労働幹部のトリオがしっかりしているうちは、まだいうことをきいていた。
「きみィ、応援するのやろ?」
 三吉が黙っていると、
「ええわしの方も、ひとつたのむゾ」
 と、長野は酔ったふりでいった。長野も高坂も「女郎派」といわれていた。そして、この名前をつけたアナーキストの小野は、この春に上京してしまっていた。
「どうだ、あがらんか」
 深水はだいぶ調子づいていた。
「おい、そっちに餉台《ちゃぶだい》をだしな」
 嫁さんはなんでもうれしそうに、部屋のなかへ支度《したく》しはじめた。
「いや、わしはかえる。ホラ、あれでな」
 長野がながいあごをしゃくってみせると、深水は気がついたふうに、こんどは三吉にだけいった。
「じゃ、きみあがれ」
「いや、おれもかえるんだ」
 三吉はそういったが、長野が垣ねから上被《うわぎ》をとって肩にひっかけ、
「なんだ女一匹、しっかりしろや」
 と三吉の肩をたたいてから、上機嫌ででてゆくのをみおくりながら、やはりたちそびれていた。
「ときに、あの娘いくつだい?」
 と、深水がきくのに、嫁さんははずんだ調子でこたえている。
「シゲちゃんは、妾《あたし》より一つ上よ」
「二十一か」
 三吉があがらぬので、しぜん夫婦もうしろへきてすわっている。
「――うちは百姓だけど、兄さんが大工さんだって。もうシゲちゃんもそろそろ、ねェ」
 三吉はくらくなってきた足もとをみていた。彼女は紙巻工であった深水の嫁さんの同僚で、深水の結婚式のとき、てつだいにきていた彼女を、三吉は顔だけみたのである。
「どうだあの子、いままで男なんかあったか?」
「そんなこと――」
 くっくっと嫁さんは笑いこけている。――ないでしょう――。
 その嫁さんのわらいごえが、三吉をあたためてくれるようだった。女房をもとうか? どんなに貧乏だってかまわない。ゆくゆくは子供がうんとできて、自分の両親のようになってもかまわない。――
「おれが、あの娘に話してみるか?」
 うしろで、夫婦が相談はじめている。
「それともお前がきいてみるか?」
「そうね」
「どっちにせ、青井の奴《やつ》ァ、三年たっても自分じゃいえない男だから」
 それでまた夫婦がわらい声をたててから、こんどは急に気がついたふうに嫁さんは、顔をかくしていたうちわを離すと、
「ね、青井さん」
 三吉があわてて電灯の灯の方へ顔をむけると、気のいい人の要慎《ようじん》なさで、白粉《おしろい》の匂《にお》いと一緒に顔をくっつけながら、
「あなたは、それでいいんです
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