ふりかえって、三吉に同意をもとめるためにふりかえる。こっちの情勢を高島に報告するのであるが、三吉は三吉で、もう今夜の演説会で、「新人会熊本支部」もおしまいだ、などと考えているのだった。
「だから、労働者グループは、いまじゃ青井君一人ぽっちですよ」
 下宿の二階にあがると、古藤にかわって福原が説明している。浅川も、
「印刷工組合は、小野が上京してから、かえってアナの影響がつよくなったようだナ」
 などというのを、古藤たちとおなじ年頃の高島はふりむきもせず、年長者のように、あぐらのひざに肘《ひじ》でささえた顔で、「フム」と、三吉の方だけみつめている。夕方福岡からきて、明日は鹿児島へゆき、数日後はまた熊本へもどって、古藤たちの学校で講演するというこの男は、無口で、ひどく傲岸《ごうがん》にみえた。あつい唇をむッと結んでいて、三吉はゴツンとぶつかるようなものを感じさせる。そのうち、学生たちがまだ彼の演説の内容について、ボルの革命論についてはてしなくいい争っているのに、気がつくと、高島は両手で膝をだいたまま、小さいカバンを枕にして、室のすみに犬ころのように眠っている。気分的なもの、感傷的なものなど、まるでないのが、三吉にはショックだった。
「きみ――」
 やがて、三吉だけがさきに帰ろうとして、梯子《はしご》段をおりかけると、おどり段まで、ふちなし眼鏡がでてきた。
「――きみ、一度東京へ出てみたらいいな」
 三吉はびっくりした。眠っているうち、彼は三吉のことを考えていたのだろうか?
「行くんなら、ぼくが紹介状をかきます」
「はぁ――」
 おのずと年長者へ対するようだった。とつぜんだが、三吉にはわかった。三吉にちゃんとしたボル理論を体得させようというのだろう。小野が東京へでてハッキリとアナーキストとして活動しはじめ、故郷へその影響を及ぼしはじめたのと、その正反対の道なのだ。三吉は梯子段にうつむいたまま、ふちなし眼鏡も、室からさしている電灯の灯に横顔をうかせたまま、そっぽむきにたっていた。――
 東京! 小野にさえぎられた東京に、もひとつの東京が、ポカリとあいたような気がする。ハンチングをかぶったボルは、三吉に新しい魅力であった。東京大森の前衛社! 赤い旗の前衛社! それはどういうところだろう? くらい道を家へ歩きながら想像している。しかし三吉は、高島にむかって、とうとう返辞をしなかった。この不安は、あのハンチングをかぶった学生のボルに話してもわからない。三吉がみたボルは、まだ学生ばかりであったが、三吉が背後にひいている生活、怪我してねている父親、たくさんのきょうだい、鼻のひくい嫁をすすめる母親、そんなことは説明しようがないのである。――
 ――裂けめだ。――
 高島が鹿児島へ発った翌日の夕方、三吉は例のように熊本城の石垣にそうて、坂をくだってきて、鉄の門のむこうの時計台をみあげてから、木橋のうえをゆきかえりしながら、運命みたいなものを感じていた。――若《も》し彼女がうけいれてくれるならば、竹びしゃく作りになって永久に田舎《いなか》に止《とど》まるだろう。労働者トリオの最後の一人となって朽ちるだろう。――そしてその方が三吉の心を和《なご》ませさえした。満足した母親の顔と一緒に、彼女の影像がかぎりなくあたたかに映ってくる。それはこの咽喉《のど》がかわくような気持から三吉をすくってくれるのであったが、とたんに、三吉はあわてだす。昨夜から考えていること、彼女にむかって、何と最初にいいだせばいいだろう? ――深水から話があって、きょう三吉は彼女と「見合《みあい》」するのである。
 電気ベルが鳴りだして、鉄の門があいた。たちまちせきをきったように、人々が流れだしてくると、三吉はいそいで坂の中途から小径《こみち》をのぼって、城内の練兵場の一部になった小公園へきた。それが深水と打ちあわせてある場所で、古びた藤棚の下に石の丸卓があって、雨ざらしのベンチがあった。さて――、一ばんさいしょに何といえばいいだろう。ベンチに坐《すわ》ったりたったりしながら、三吉はあわてていた。それはゆうべから考えていることだが、まだわからなかった。たぶん彼女は黙っているにちがいない。せいぜい弁当箱に顔をおしつけて笑うくらいだろう。何とかいわねばならないが。――もちろんいうことは沢山《たくさん》あった。自分が竹びしゃく作りであること、熊本ではもう雇ってくれてがないこと、それから自分の理想、ヨゼフ・ディーツゲンのこと……。しかし一ばん最初には何というか? それがいくら考えてもわからなかった。
「やぁ――」
 桜並木になっている坂の小径《こみち》を、深水が気どったすまし方でのぼってきた。その背中にかくれるようにして彼女がついてきた。深水も工場がえりで弁当箱をもっているが、絽《ろ》羽織などひ
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