けされてしまった。
「――だからさ、だからわしは、小野がいるときから、アナだの何だの、支持したこたァないよ。そうでしょう、そうですとも。だいたい諸君は、わしのことをダラ幹だの、女郎派だのというけれどだネ、しかしだネ、じっさい労働者というもんは……」
硝子《ガラス》戸がガタ、ガタッとあいて、怒った古藤がとびだしてきた。そして入口でせわしく下駄をつっかけると、すぐ近所の自分の下宿へ、庭づたいにかけだしていった。
「――理想はよろしい。アナでも、ボルでもけっこう。だからわしはポスターでも、会場費でも何でも提供している。しかしだね、諸君は学生だ、いいですか、いわば親のすねかじりだ。いや怒っちゃいけませんよ、しかしだネ、いざといって、諸君に何か……」
さいごに、おとなしい福原も、だまって外へ出ていった。
「ばかづらどもが――」
三吉がポスターをかいている板の間へ、高坂が、扇子をパチッ、パチッと鳴らせながらでてきた。むかし細川藩の国家老とか何とかいう家柄をじまんにして、高い背に黄麻の単衣《ひとえ》をきちんときている。椅子《いす》をひきずってきて腰かけながら、まだいっていたが、
「なんだ、青井さ、一人か」
と、気がついたふうに、それから廊下をへだてた、まだ夜業をしている工場の方へ、大声でどなった。
「安雄ッ、武ちゃん――」
よばれた二人の文選工が、まだよごれ手のまま、ボンヤリはいってくると、
「お前たち、もう今夜はいいから、ポスターをてつだいなさい」
と、あごでしゃくった。武ちゃんも、安雄も三吉とは知っている組合員であったが、主人の方にだけ気をとられている。
「ずッと、家へもどっていい、夜業は三時間につけとくから」
のりバケツとポスターの束をかかえて、外へでるとき、主人にそういわれると、二人はていねいにおじぎしている。
「オーイ」
古藤の下宿の下を通るとき、三吉はどなってみたが返事がなかった。あかるい二階の障子窓から、マンドリンをひっかきながら、外国語の歌をうたっている古藤の声や、福原や、浅川のわらい声が、ずッとちがった、遠くの世界からのようにきこえていた。
三
「社会問題大演説会」は、ひどく不人気だった。――高島貞喜は、学生たちが停車場から伴ってきたが、黒い詰襟《つめえり》の学生服を着、ハンチングをかぶった小男は、ふとい鼻柱の、ひやけした黒い顔に、まだどっかには世なれない少年のようなあどけなさがあった。
「フーン、これがボルか」
会場の楽屋で、菜《な》ッ葉《ぱ》服の胸をはだけ、両手を椅子の背中へたらしたかっこうにこしかけている長野は、一《ひ》とめみてたち上《あが》りもしなかった。長野は演説するとき、かならず菜ッ葉服を着るが、そのときは興ざめたように、中途でかえってしまった。前座には深水と高坂がしゃべった。浪花ぶし語りみたい仙台|平《ひら》の袴《はかま》をつけた深水の演説のつぎに、チョッキの胸に金ぐさりをからませた高坂が演壇にでて、永井柳太郎ばりの大アクセントで、彼の十八番《おはこ》である普通選挙のことをしゃべると、ガランとした会場がよけいめだった。演壇のまわりを、組合員と学生が五十人ばかりとりまいているほかは、ひろい公会堂の隅の方に、一般聴衆の三人五人が下足をつまんで、中腰にしゃがんでいる。そしてそんな聴衆も、高島が演壇にでてきて五分もたつと、ぶえんりょに欠伸《あくび》などしながら帰ってしまった。
じっさい、この「東京前衛社派遣」の弁士は貧弱だった。小さいのでテーブルからやっと首だけでている。おまけにおそろしく早口で、抑揚も区切りもないので、よくわからないが、しかし三吉には何かしら面白かった。ロシヤ革命とボルシェヴィキ。レーニン。ロシアの飢饉と反革命。それから鈴木文治や、アナーキズムへの攻撃。――ことに三吉には話の内容よりも、弁士自体が面白かった。右の肩で、テーブルをおすようにして、ひどい近眼らしく、ふちなしの眼鏡で天井をあおのきながら、つっかかってくる。ところどころ感動して手をたたこうと思っても、その暇がない。――われわれ労働者前衛は――というとき、歯ぎしりするようにドンドンとテェブルをたたく。
しかし、考えてみればおかしな演説会であった。工場がえりの組合員たちは、弁当箱をひざにのせたまま居眠りしているのに、学生たちは興奮して怒鳴《どな》ったりしている。ひょうきんな浅川など、弁士が壇をおりたとき、喜んでしまって、帽子を会場の天井になげあげて、ブラボー、ブラボーと踊っている。深水や高坂や、組合員たちもだんだんに帰ってしまい、演説会が終ったときは、三吉をのぞくと、学生だけであった。
「そうだな、青井」
くらい町を、高島をかこんで、古藤の下宿にもどりながら、学生たちのうしろから歩いてゆくと、ときどき、古藤が
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