でないのみならず、その他はくだ/\しい故ここには詳記しないが、五六廉位、植字の形式が違つてゐるのは不思議でない、況んや前記の如く寫本によつて植字したものと考へられるに於てをやである」といふ文によつても、或は輸入活字ではないかも知れぬ。しかし安政五年といへば「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」を信ずるかぎり、嘉平の活字は完成の緒についたくらゐの時であり、たとへば完成してゐたにしても島津の殿樣が他への流失を容易に許したらうか? 專門家でない私などの判斷はをこがましいが、若しそれがオランダ單語篇の活字とも相違するならば、そして輸入活字でないならば、嘉平の他にも活字を作つた人間がゐるといふことになる。
私は何とか手づるを求めて秋山氏の「濟生三方」を見たくてならない。いまは疑問の儘に一應措くより外ないが「江戸の活字」が歐文から始まつたといふ事實は、永年の印刷工であつた私にもびつくりする發見であつた。
ある日の午後、私は巣鴨の奧にI・K氏を訪ねた。二階の室に一時間ばかり待つうちに漸く主人は歸つてきたが、I・K氏は英語の教師でまだ若かつた。坊主ツくりの近眼で、私が自分の疑問について述べるうちも、伏めがちに一つところへ眼をおいてゐる。
「さア、活字のことはあまり氣をつけてゐないので……」
口數すくなく階下へおりてゆくと、持重りのする古びた洋書を五六册かかへてきて、その一つを私の前において、簡單に云つた。
「これが、それですけれど――」
實物があらうとは思ひがけなかつた。いま眼前にあるそれが洋學年表では片假名で書かれる有名な「サツマ辭書」ではないか! 私はいきなりその大きな書物を眞ン中からあけた。そして直覺的に「ちがふ!」と感じた。これは日本の印刷物ではない!
菊判より大きく四六倍判より小さいが、左にならんでゐる歐文はパイカで、例の「單語篇」のイタリツクとちがひ、假に嘉平もパイカを作つたにしても字形が洗練されすぎてゐる。むしろ疑問は右にならんでゐる和文の活字、漢字よりも特に小さくしてある片假名にあつた。その並び方も日本で作られた蘭和辭書などと同じで、一方が鉛活字の歐文に、その脇ツ腹へ頭をおつつけて縱書に、つまりねた形の、それと同じ式である。
「或は上海の美華書院か知れませんね、ヘボンの辭書はたしかさうだといひますね。」
I・K氏は、さう云つておいて、私が返辭せぬうちに、また自分で疑問をだした。
「しかし片假名は、假に字母があつたとしても、支那人の職工にくめますか?」
私は「くめる」と答へた。植字工は特別な感覺をもつてゐて、たとへば日本の歐文植字工でも英語やドイツ語が讀める者は殆んどないが、それでも十分やつてのける。私の不審は片假名活字にあるのだが、木村の活字が上海まで搬ばれたか、ないしは誰かが片假名の種字をむかふで書いたか、である。
奧附もないが、丸がかりの洋裝で、がつしりした革表紙の背には箔捺しで「英和對譯辭林」とある。用紙がラフに似た洋紙であることからも、當時の日本印刷術からみて和製と疑ふすべはない。
「ああ、いいものがあります。」
また階下へおりていつたI・K氏は、薄い古雜誌を持つてきた。「新舊時代」といふので明治文化研究會が發行した昭和二年二月號である。めくられたところに「明治初期に出版した英和辭書類、石井研堂」とあり、その一項目が、「サツマ辭書」に關するものであつた。「薩藩洋學の教師高橋新吉、長崎にあり。洋行して宇内の新知識を究めんと欲すること多年。――偶々長崎人蔡愼吾と交情あり、一日愼吾勸めて曰くに、開成所の「英和對譯袖珍辭書」を増訂して洋行の資を得たらば如何」と。つまりこれが「サツマ辭書」刊行の動機であつて、當時開成所版の辭書(大福帳型)は十二三兩の値段だつたから、多量に増訂したら利益もあらうといふ譯である。以下意味だけ述べると、「本邦に活版印刷の業未だ起らず」愼吾の紹介で長崎の宣教師フエルベツキに逢ひ、フエルベツキまた上海の傳道印刷會社ガンブル商會を紹介して、出來拂ひの契約で印刷することとなつた。「サツマ辭書」はつまり開成所版の改訂版であるが、高橋がどれ程の造詣をこの辭書に傾けてゐるかは、私に判斷できない。とにかく高橋が上海に渡つたのは慶應三年で、間もなく大政奉還の御一新に遭ふや、一旦歸國したが、再び上海に渡り、明治三年の一月三百部が完成したといふ。
そして研堂氏の文は「あるとき前田正名翁筆者に語りて曰く」とつづいてゐる。前田献吉、正名の兩人もこの辭書計畫の關係者で二人共に上海へ渡つた。「活版所は上海の某寺院であつて、支那人を使役してゐた。」文中印刷そのものに觸れたのはここだけであつて、片假名の種字がどうしてあつたか、嘉平の活字と由緒があるかどうかもさつぱりわからないが、讀んでゐるうち、私は思はず聲をたてた。
「おお正名兄弟! 貴方、前田正名を知つてるでせう、ほら、外國渡航を企てて兄弟ともふん縛られた人ですよ。」
私はI・K氏が知つてゐようとゐまいと、じつは偶然に正名が「サツマ辭書」の計畫者であつた發見の感激を語りたいのだ。私は以前に正名の傳記を讀んだことがあるが、このことは書いてなかつた。正名は明治初期にフランスへ留學し、普佛戰爭へも義勇兵として參加し、歸朝するや官吏となつて縣知事、農林次官など勤めた人であるが、最も大きな功勞は日本農業を近代化したことにあると謂はれてゐる。薩摩藩士前田善安の四男に生れ、九歳にして洋書を讀んだ秀才であり、十四歳のときその兄と共に外國渡航を企てて露見し、幕吏に捕縛され、兄は切腹したが、正名は若年の故と、兄の命乞があつて死を減ぜられたといふのである。察するに「サツマ辭書」計畫以前のことと思はれ、その兄といふ人は、献吉より上か下かわからぬが「宇内の新知識を究め」たい志は、猶やむことなくして、その頃の長崎にうろついてをり、とほく太平洋を睨んでゐたのであらう。
私は再び古びた「サツマ辭書」をめくつて、序文を見た。木活字風の字形で「皇國ニ英學ノ行ハルルハ他ニ非ラス所謂彼ノ長ヲ取リ我ノ短ヲ補ハンカ爲ナリ其ノ長ヲ取リ短ヲ補フハ 皇化ヲ萬國ニ輝カサン爲ナリ」とはじまつてゐて「明治二歳己巳正月、日本薩摩學生」と結んである。裏は英文の序文で、終りは同じく(1869, student of satuma)とあつた。ああ何といふ豁達なひびきであらう。スチユデント・オブ・サツマ!
個人名もいれず・サツマ學生とだけ名乘る人々の胸を反らした面影が泛んでくるやうであつた。上海にあつて御一新のことに遭ひ、藩士として一應の始末に歸國しても、すぐまた海外へ渡つたこの人々の心には既に藩などはなくて、あるものは皇國、世界における日本であつたのだらう。
私はすこし昂奮しながらI・K氏の家を出た。既に日暮れで癌研究所前から大塚驛の方へ歩きながら、嘉平の活字の行衞は益々紛亂してわからぬままに、少しも失望してはゐなかつた。このうへは手蔓をもとめて島津公の集成館へゆき、その遺品活字に見參することが、殘された唯一の手がかりであらう。
しかしそれはさうとしておいて、私は考へねばならぬのだ。「江戸の活字」も木村嘉平だけではなかつたか知れない。電胎法による字母も完成されたのだ。しかも、しかも何故に活字は江戸に生れず、長崎に生れたのだらうか※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
嘉平が元祖か、昌造が元祖か、そんなことは大きな問題ではない。江戸で生れず長崎で生れねばならなかつたその社會的事情、ああその事情、それこそ「本木昌造傳」に是非書かれねばならぬ要素の一つだと、私はいつか大塚驛前を通りすぎ、白木屋の前に出てしまつてから氣がついて引返しながら、さう考へてゐたのであつた。
[#改丁]
[#ページの左右中央]
長崎と通詞
[#改丁]
一
「――せめては板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に、其功を急ぎ候事、胸に火を煽るが如くにて御座候――」
「海國兵談」の著者林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。
「――小子は遠鄙に在之候を板刻の諸用を調度仕候故、直に諸君に奉謁し奉告事不能候、因て東都の心友手塚市郎左衞門、柿沼寛二郎、森島二郎、工藤平助、藤田祐甫の五人に托し候て右御入銀の取次を相願候事に御座候、御入銀の御方方右五人の内催寄の者候はば即ち板刻の處に相屆申候――」
これは今日でいふ「豫約出版」の勸誘状であるが、江戸中期以降、海邊漸く多事ならんとするとき、「海國兵談」の著述をもつて命にもかへがたいとした林子平が、當時の印刷術の迂遠さと、その高價さとを嘆く、身を灼く思ひがその全文にあらはれてゐる。私は文明の今日、印刷業にたづさはつた人間の一人として、次に見る「海國兵談」印刷費用の内譯を、ふかい感動をもつてここに掲げよう。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
一つ、右海國兵談者初卷の水戰の卷より末卷の略書に至つて總て十六卷、紙數三百五十枚也、是を八册に造
一つ、右海國兵談千部を仕立候て世に施し度事小子終身の大願にて御座候事
一つ、右の如く千部を仕立候事其れ不少候、因て書肆を招て千部を仕立候、値の大略を計畫せしめ候、其大數左の如し
一つ、紙一枚の彫賃四匁五分也
三百五十枚の彫賃一貫五百匁也、金にして二十六兩一分也
一つ、全部八册にて紙八帖づつ用ゆ、千部にて八千帖也、一帖の値八分五厘宛、八千帖にて六貫八百目也、金にして百十三兩一分と銀五匁也
一つ、表紙八千枚、一部八册千部八千册、一枚の値二分五厘づつ、八千枚にて二貫目なり、金にして十兩二分と銀五匁也
一つ、縫糸一部に二丈を用ゆ、千部にて二千丈也、一部の縫糸代六分五厘づつ、千部にて六百五十目也、金にして十兩三分と銀五匁也
一つ、摺賃一部に付四分宛、千分にて四百匁也、金にして六兩二分と銀十匁也
一つ、仕立賃一部に付一分宛、千部にて一貫匁也、金にして十六兩二分と銀十匁也
一つ、外題料全部八册に一分づつ、千部にて百目也、金にして一兩二分と銀十匁也
〆、銀にして十二貫五百二十匁也
金にして二百八兩三分也
[#ここから1字下げ]
右者海國兵談を千部仕立候値の大略の積方也、然るに小子元より無息にして且清貧なる者に御座候得ば、中々自力而已に難叶存奉候、因て今度板刻の證に今日迄に彫終り候水戰五卷數册を仕立て候て、諸君の賢覽に奉入此末造功の費を御助被下候――」
[#ここで字下げ終わり]
云々とある。
口上のうち摺賃とは印刷費であり、仕立賃とは製本費のことである。摺賃千分[#「分」に傍点]は千部[#「部」に傍点]と思ふが、仕立賃より廉い。江戸中期には木版印刷が發達してゐるが、千部の摺賃銀四百匁とすると、當時のばれん刷りもよほどスピードがあつたにちがひない。又外題料といふのは表紙貼込の書名印刷及び紙代のことだらうか?
しかし何と高價であつたらう。「海國兵談」全八册三百五十枚は、今日の九ポイント活字にすれば四六判で三百頁足らずと思はれる。しかも林子平を苦しめたのは、高價といふだけではなかつた。その何倍もの「せめても板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に云々」といふ苦痛は、歸するところ木版彫刻、今日でいへば植字製版にあつたのだ。
「――一人にて彫る所紙一枚に大概一日半掛り也、海國兵談總紙數三百五十枚にて御座候得ば、一人にて是を彫候得ば元日より大晦日まで休みなしに彫候て九百日掛り申候、二人にて彫り候得ば四百五十日、四人にて彫候得ば二百二十五日掛り、八人にて彫候得ば一百十三日に彫終り申候――然るに小子無息清貧にて御座候得ば、工人を多く用ひる事不能候――」
そして林子平はつひに彫師一人しか用ひることが出來なかつたし、「海國兵談」の板刻は一千六十日を費したのである。
私は思ふ。これは近代活字發生前の貴重な文獻である。そしてこれはひとしく當時の學者たちの苦衷であつたらうし、子平の場合、この克明な口上書の裏には、印刷術の迂遠さに對する不滿が明らかに流れ
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