てゐる氣がする。
 周知のやうに「海國兵談」の出版は寛政三年だ。日本で始めて本木昌造が外國から鉛活字を購入して近代活字の研究にかかつたのが嘉永元年で、川本幸民が活字字母製法の「電胎法」を講述實驗したのは嘉永五年(同二年とも謂ふ)の事だから、その間五十餘年を距ててゐる。當時の學者たちが印刷術の迂遠さに對する漠然たる不滿はあつても、意識したものにならなかつたのは當然だらう。しかし林子平が、海國兵談豫約出版の檄文に、克明な印刷費内譯を書いた氣持には、もつと何かがある氣がする。たとへば周知のやうに彼はしばしば長崎を訪れてゐる。出島の蘭館にも出入して彼自身の筆になる、彼が蘭館甲比丹たちから饗應を受けた繪があるくらゐだ。彼はそこで種々の洋書を見、當時既に蘭人にとつては日常的であつた鉛活字や印刷機も見聞したにちがひないだらうからである。これは私の不當な飛躍だらうか?
 或は牽強附會とされるか知れない。しかし私の僅かな知識でも、近代活字に關心をもつたのは、主として洋學者たちだつたといふことが出來る。前記の川本幸民が然り。「活字の料劑」を書いた杉田成卿が然り。彫刻ながら鉛ボデイの活字を開成所版に用ひて印刷術の歴史に劃期的影響を與へた大鳥圭介もまたさうである。さらに島津齊彬の命をうけて木村嘉平が作つた活字の最初のが歐文であつたと謂はれ、その他私には作者未詳の「八王子の活字」や、江戸で作られた「オランダ單語篇」がまたさうだつたといふことなど、考へあはせると、洋學と近代活字とは切つても切れぬ關係があらう。
 本木昌造は和蘭通詞で、また洋學者だつた。彼が活字なり印刷術なりに關心をもちはじめたのは、前記洋學者たちのそれと軌を一にするものだらう。そこでまた私の考へは飛躍するのであるが、では長崎よりも江戸においてはより澤山の活字の研究者があり、學者があつたのに、何故それが江戸でなくて、長崎でより早く完成しただらうか? 歴史に從へば、活字はつひに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していつてゐるのである。
 その理由を簡單にいへば、二つあると思ふ。その一つは當時の長崎は、唯一の海外文化の入口であつたこと。從つて明治二年米人技師ガンブルが上海から歸國の途次、長崎に寄港したとき、偶々電胎法による活字字母の製法を、本木昌造に傳授するチヤンスがあつたといふこと。つまり「地の利」といふのが、その一つである。
 その二は、昌造が活字製法に二十年來苦心をつづけてゐた人間だつたこと。ガンブル寄港以前にも幾度か門人をつかはして、上海の傳道印刷會社からその製法を學びとらうと企てては失敗してゐた人間だつたこと。つまり昌造のやうな、江戸の洋學者たちと同じく、近代活字の製法にふかい關心を持つた人間がゐたといふことであるが、さらにも一つ、昌造の場合、通詞といふ職掌柄、外國の文明品を輸入して研究するには、同じ洋學をやる人間のうちでも、比較的好都合だつたといふ條件である。
 つまり昌造は、當時のわが日本において近代活字を造りだすのに、誰よりも適當な位置にゐたといふことになる。もちろん和蘭通詞も幕末の長崎では百人を超えたと謂はれるから百人のうち偶々それが本木であつたといふことは、昌造の人間としての特殊面であるだらう。だが私は、人間昌造を含めて、日本の近代活字創成の歴史を知るには、一つは、「地の利」といふもの、當時の長崎がもつた國内と國外關係を究めること。いま一つは、洋學の傳統といつたもの、及び通詞と通詞昌造の生涯といつたものから、まづ知るべきだと考へた。
 それで私はまづ後者から始めよう。

 昌造は文政七年、長崎の新大工町に生れた。父は町の乙名(區長)北島三彌太氏、母は本木繁氏。その四男であつて、幼名を作之助といつたと謂ふ。天保五年、十一歳のとき本木昌左衞門の養子となつたが、昌左衞門は母繁の兄であり、伯父である。
 私は昌造の幼時について傳へた文獻を知らない。多くの昌造傳は「幼より學を好む」とか、「幼より俊敏にして工才に長けたり」とあるくらゐだが、これは恐らく傳記者が附加した文章だらう。私もそれを嘘だなぞとは思はないが。
 彼の生れた文政七年は西暦にすると一八二四年で、當時の長崎を歴史的に想像してみると、その前年文政六年には、彼の新大工町とはつい眼と鼻のちかくにある出島の蘭館に、館附醫員として血氣二十六歳のフオン・シーボルトが來朝してゐた。そして昌造の生れた年には、弱冠二十一歳の高野長英が遙々東北の水澤から笈を負うて長崎に來、シーボルトに弟子入りしてゐるが、翌文政八年には、長崎の郊外鳴瀧に校舍が建てられ、このドイツ生れの新知識をたづねて、醫術に志す者、自然科學や語學に志す者、當時のすぐれた青年たちが、日本ぢゆうのあちこちから集つてきてゐたのである。洋學年表文政八年の項に、「長崎の東郊鳴瀧の地に校舍を建てシーボルト講學の場とす」とあり「醫學、博物學を講説す」とあつて、當時の模樣を日高凉臺が手紙で傳へた文に「此節は西醫も珍敷者到來にて、町ぢゆう施療彼是にて、四方の英哲許多相集、未曾有之盛事と申に御座候、當時阿州美馬順三、江戸湊長安、遠州戸塚靜海、阿波高良齋、其他研介○○などいづれも相應に出來候者にて愉快無限に相覺申候」云々といふくだりもあつて、昌造が物心つくころには、長崎ぢゆう好學の氣分が溢れてゐたのだから、よほどのボンクラでない限り、何らかの影響をうけずにはゐられなかつたらう。
 ましてや彼は通詞を職とする家柄に人となつたのだから、その影響度合もはげしかつたにちがひない。おまけに長崎は幕府直轄の地であるし、通詞は長崎奉行の支配下にあつたから、政治的影響も色々と身にしみながら成長したと思はれる。殆んど江戸末期の政治的合言葉となつた「攘夷」と「開國」は、海外文物の入口であつた長崎では、日本ぢゆうのどの土地よりも直接ひびいたらうし、通詞といふ職業柄、長崎ぢゆうの誰よりも現實的に影響したにちがひない。
 昌造二歳の文政八年には幕府は「異國船打拂令」を出してをり、昌造十九歳の天保十三年には「異國船打拂令改正」が出てゐる。文政八年のそれは周知のやうに「異國船渡來之節無二念打拂可申」といふ頑固なものであるが、天保十三年の改正令では「其事情不相分に、一圖に打拂候而は、萬國に被對候御所置とも不被思召候」また「異國船と見受候はば、得と樣子相糺し、食糧薪水等乏しく、歸國難成趣候はば、望之品相應に與へ」云々となつてゐて、この改正令も外國人の上陸は許さなかつたが、よほど緩和されたものとなつてゐる。文政八年の令は將軍家齊であるが、改正令は家齊退職の直後であつて、その間幕閣にもいろいろと機微な動きがあつたであらう。文化文政の頃からは英船、魯船の來航が漸く頻繁となつてゐるし、少年昌造には、政治の機微な動きについて察知することは出來なかつたとしても、たとへば次のやうな出來事は影響あつたのではなからうか?
 つまり「蠻社遭厄事件」で、天保十年に高野長英、渡邊崋山が捕へられたとき、昌造は十五歳であつた筈である。長英の「夢物語」、崋山の「愼機論」を幕府が忌むところとなつて崋山は天保十二年、昌造十七歳のとき自殺し、長英は昌造が二十七歳、嘉永三年に自刄するまでは破獄したまま行衞不明だつた。シーボルトの弟子であつた長英、また「夢物語」や「愼機論」やを、昌造など直接讀む機會をもつたか否かはわからぬにしても、幕府の「打拂令」について洋學者たちがはじめて觸れた政治的見解であつたから、贊不贊は問はず、同じ洋學をやる昌造には、ニユースの早い長崎で、何かと感ずるところがあつたと思はれるし、天保十三年の「改正令」が出たときは、職業柄昌造たちには現實的にひびくところがあつた筈である。
 私は昌造の幼少時について傳へる文獻を知らないから、こんな世上一般の動きを考へて、その一面を推し測つてみるのだが、長崎といふ地にあつて、通詞を職とする家にあれば、その影響するところも、單に國内的なものばかりではなかつただらう。年々歳々、これだけは家康の渡海免許の御朱印状を持つてゐて、貿易のために渡來する和蘭船のほかに、當時のさだめとして、日本の土地のどこに漂着しても、必ず一度は長崎におくられてきた、毛色眼色のちがつた異國人たちに接してゐれば、あれこれと海外の珍らしい出來事も聞きかじつたと察することが出來る。
 そして昌造が五歳の年、一八二八年にはアメリカ大陸にはじめて汽車がはしつたのであるし、昌造十一歳の一八三四年にはヤコビの電機モーターが發明されてゐる。翌十二歳の一八三五年にはモールスの電信機が完成してをり、同じ年にコルト式拳銃が發明されてゐる。さらに昌造十五歳の一八三八年、日本で長英、崋山が捕へられた年には、はじめて大西洋に黒煙をなびかせながら蒸汽船が、つまりこれより十五年後の嘉永六年、日本をおどろかした黒船が波を蹴立ててはしつたのである。

      二

 本木の家は和蘭通詞のうちでも、名村、志筑、石橋、吉雄、楢林らと並んで舊家である。三谷氏つくる家系圖に據れば、その祖を明智光秀の孫、林又右衞門に發してゐると謂はれ、又右衞門より三代庄太夫のとき本木姓を名乘り、松浦侯に仕へ肥前の平戸に住したとある。庄太夫より祐齋、つづいて同じ名の二代庄太夫がはじめて平戸より長崎に移住、通詞としての本木家元祖となつた。
 同家系圖では移住の年號が明らかでないが、洋學年表では「平戸人本木庄太夫――是年長崎に移住す、後寛文甲辰小通詞となり、又五年寛文戊申大通詞に陞る」とあつて、「是年」は萬治二年である。庄太夫は元祿十年七十歳で死んでゐるから、移住の年は三十六歳の壯年であつた。
 この時代の日本人はどういふ風にして外國語を習得したのだらうか? 仔細のことは私にわからぬが、前掲書には「庄太夫、本姓林氏、世々松浦侯に仕へ、少より和蘭館に出入して其言語に通ず」とある。つまり外國人に接してゐるうち、口うつしに發音だけをおぼえていつたのだらう。從つて長ずるには一種の記憶力といつた才能が必要なわけで、庄太夫は秀でた資質があつたらしい。ただここで腑に落ちぬ點は、和蘭商館が平戸から長崎出島に移轉したのは寛永十八年のことであつて、庄太夫移住の萬治二年を距つること十七年前だといふことである。だから「幼より和蘭館に出入し」といふのは、庄太夫十九歳以前のこととなる。同じ肥前であつても平戸と出島は、當時の交通からみてはよほどの距離であるし、移轉後の商館にちよいちよい出入は出來まいと思はれる。しかもまた庄太夫が通詞として召抱へられたのは寛文四年と、板澤武雄氏「蘭學の發達」にはみえてゐるから、移住後萬治二年から五年後に屬する。してみると庄太夫は、その管轄領主であつた松浦侯に仕へながら、長崎移住後も何らか和蘭商館に關係ある役柄でも勤めてゐたのだらうか?
 いづれにしろ蘭語について、たとひ口眞似だけの理解にしろ、才能をもつた人物は當時珍重されたのにちがひない。周知のごとく將軍家光は切支丹禁制の施政を強化するために、平戸にあつたポルトガル、支那、和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を築いて、そこへすべてを收容したが、一方、貿易事業は日を逐うて旺んになつていつたし、フオン・シーボルトの「日本交通貿易史」によると、「此時(一六七一年、寛文十一年)は、イムホツフ總督(東印度會社の支配權を握る蘭印總督のこと)が、日本における和蘭貿易の黄金時代と云ひたる頃なり」とあつて、日本の輸出高は和蘭のみで、年々四五十萬兩にのぼつたころである。しかも日本から積出されるものは最初に黄金、つぎは銀、つづいて銅といふぐあひで狡智なヨーロツパ商人どもに乘ぜられて、怖るべき勢で貴金屬を失ひつつあつたのだから、幼稚な幕府もおどろいて、それらの危險を防ぐ施策の一つとして、より澤山の和蘭通詞をもとめてゐたと考へられるし、幕府は松浦侯に命じて庄太夫を召抱へたのだと察せられる。
 庄太夫は、諱を榮久といひ、のち剃髮して良意といつた。四十一歳で小通詞となり、四十六歳で大通詞に陞つた。彼が六十八歳のとき、幕府は和蘭通詞に目付をおく制度を設けたが、庄太夫はえら
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