ると幸民は直ちにその男の眼前で燐寸を發火させてみせたので、相手はいまさら言を左右にしたが、嚴重にせまつて百兩をとりあげたといふ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話があるのにみても、當時の學者たちは今日と比べてもつと實踐的だつたにちがひない。
私は蟲の喰つた寫本の肩をいからせた墨書き文字をながめながら、百年前の鬱勃とした知識慾といふか、進歩慾といふか、そんなものを、身體いつぱいに感じながら、當時の世界を想像してゐるうちに、K・H氏にきいた木村嘉平のことがつよく泛んできた。島津の殿樣に頼まれて、蘭語の活字を作るために十一年を辛苦した人、幕府の眼を怖れて晝間も手燭をともした、くらい一室で、こつこつと鑿《のみ》と鏨《たがね》で木や金を彫つたといふ人……。
私は夕方だといふ時間さへ忘れてゐた。近所の公衆電話にいつて×××印刷會社へかけると、K・H氏は疾つくに退けたあとだつた。自宅へかけるとK・H氏は快く應じてくれた。その日は朝のうち空襲警報が鳴つて、午後からは雨だつた。警戒警報はまだ解除になつてをらず、町もくらく、電車の中もくらかつた。
私はみちみち一つの發明や改良について、どれだけ澤山の人が苦勞を重ねるものかなど考へてゐた。殊に言語をあらはす活字については多くの知識人がそれぞれに關心を持つたであらうと考へた。たとへば杉田成卿は「萬寶玉手箱」のなかで、「西洋活字の料劑」といふのを書いてゐる。「萬寶玉手箱」は安政五年の刊行となつてゐるが、「活字は大小に隨つて鑄料に差別あり。その小字料は安質蒙(アンチモン)二十五分、鉛七十五分。大字料は――」といつたぐあひである。また年代はずツと遡るし土地も異るが、レオナルド・ダ・ヴインチも活版術の成功に骨折つたらしく、ハンドプレスに似た印刷機の構案を圖にしたのが、ある雜誌に載つてゐたのを思ひだしたりした。市電角筈の停留場までくると、くらいガード下で、私は誰かの背中にぶつつかつた。うごけないままにたつてゐると、すぐ背後も人でいつぱいになつた。ここで折返しになる「萬世橋行」が、遮蔽した鈍い灯をかかげてビツコをひくやうに搖れながら入つてくると、こんどはシヤベルでつつかけるふうに、踏段やボートにつかまつた人間を搖りこぼしながら出ていつたが、黒い人垣は氾濫する一方で、傘をひろげると誰かが邪慳につきのけた。灯はどこにも見えず、空はひくかつた。何か壓迫されるやうな空氣がみんなを押しだまらせてゐる。身動きするたびに邪慳にこづきかへす肘があつて、私のあご[#「あご」に傍点]の下には背のちひさい婆さんの髷あたまがつつかへてゐた。すると少しうしろの方で、しやがれたのぶとい聲がきこえた。「はるさめぢや、ぬれてゆかう――」やくしやの聲色である。すると誰かがクスツとわらつた。私もわらつた。つづいてあつちこつちで、おしかぶさる空氣をハネとばすやうに、笑ひが傳染していつた。――
私は闇をつらぬくあたたかいものを身内に感じてゐた。牛込北町の通りも眞つくらであつた。見おぼえの新潮社の建物が仄じろく浮いてゐたので、やうやくK・H氏の邸が見當ついたくらゐだつた。
「濡れたでせう、よく出てきましたネ。」
K・H氏は親切に應接間を明るくして待つてゐてくれた。そして例の「印刷大觀」を出してくれながら云つた。
「私もまだサツマ辭書の初版といふのは見てゐないので、斷定は出來ませんがネ。」
私はそれを讀みながら、K・H氏は木村嘉平のつくつた活字でサツマ辭書が印刷されたのだといふ、その文章のうちのある事實のことを云つてゐるのだと理解した。
「しかし、この本の活字はたしかにそれだと、私は思つてゐるんだが――」
また奧の室から一册の本を抱へてきて、私の膝にのせながら、K・H氏は云つた。
「オランダ文法の單語篇ですがネ、江戸で印刷されたものだといふことは明らかのやうですよ。」
古びた青表紙の大福帳のやうな本である。分厚く細ながく、袋綴の和紙に、こまかいイタリツク風の歐文活字で印刷してあつたが、一見鉛活字だといふことは明らかだ。
「ネ、この字づらの不揃ひな點など、輸入活字とちがふと思ひませんか。」
私も同感であつた。K・H氏の説明によると、この「和蘭文法書」は、當時の江戸書生の間にひろく讀まれたものださうで、これより少しさき、安政三年から四年へかけて、長崎奉行所でも和蘭文法書の「成句篇」「單語篇」が刊行されたが、それは輸入活字であつて、字形がちがふといふのであつた。
私はもすこし木村の活字の行衞を知らうと思つた。K・H氏は私の考へに贊成してくれて、二三の參考書を貸してくれながら、
「I・K氏を知つてますか?」
と訊いた。私は少しまへに長崎通詞のことで、友人の紹介で一度I・K氏を訪ねたことがあつた。江戸期における洋學傳統の研究家で、特に英語の歴史については權威ある人だと謂はれてゐた。
「さうだ、I・K氏に教へてもらつたら、サツマ辭書の活字がわかりますネ。」
私は答へながら勇みたつてゐた。
三
木村嘉平は、本木昌造より一年早く、文政六年の生れ、江戸神田小柳町に住んだ。代々彫刻師で、十八歳にして業を繼ぎ、特に筆意彫りをもつて謳はれてゐたといふ。宮内省にも出入し、當時諸大名の藩札の原版は多く嘉平の彫刀に成つたと謂はれる。
「印刷大觀」の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」には次のやうに書いてある。「右活字は安政年間、薩摩守齊彬公樣より江戸神田小柳町において代々彫刻を業とせる木村嘉平に命じ、嘉永元年より元治元年に至つて完成せる遺品にして、その作品中には鋼鐵製の一端の面に文字大は四厘より一分五厘まで、數種類の深く凸形に彫刻せる數百の文字、數百の銅製凹字母、金屬製三個より成る鑄造機、各活字字形、數千の木製模型、彫刻用の鑛|鑿《のみ》及び電氣銅版に使用する鑛銅用の器具、蝋石面に彫刻せる和文數千の種字印刷機兼植字機、その他參考せる蘭書等、いづれも當時使用せるものにて今日尚保存するところなり」
この文章は若干不親切で、繁多な器具遺品の模樣が、植字工であつた私にもちよつと理解しにくい。同文章はつづけていふ。「嘉平は二十五歳にして薩摩守樣の召すところとなり、當時齊彬公樣は歐文書類を版本としてあまねく御藩中に學ばしめんとの御尊慮によつてひそかに嘉平に御洩談あらせらる――」。
島津齊彬がひそかに輸入した蘭書を藩士一統に讀ませて、夷狄の新知識をわがものとせんとした英斷はよくわかるが、飜譯のできる學者も澤山あつた當時に於て、蘭書をそのままの蘭文で、しかも歐文活字を創成させてまで刊行しようとした意圖は、どういふのであつたらうか? あはせて藩士の語學力を強化せんとしたのだらうか? それとも幕末當時の、蒸汽船を作るにも、大砲を作るにも、雄藩同志が鎬をけづる競爭のいきほひであつたから、祕密を守るために歐文としたのだらうか? しかし私は考へる。いやいやさうではあるまい。尠くともそれだけではあるまい。何よりも大きな理由は、歐文ならばアルハベツト二十六文字の字母創成で、萬事が足りるといふこと。島津齊彬も木村嘉平も、まづは捷徑を選んだのではなからうか※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
「しかし當時歐品としいへばすべて幕府の禁止するところ――嘉平は自家の一部に密室をつくり晝夜燈火を具へて」とある。「櫻材をもつて模型をつくり數多の鑢《やすり》と鏨《たがね》をあつらへ、銅又は眞鍮を用ひて、長方形大小各種の種字を作りだし」云々。嘉平の寫眞は世につたはつてゐないらしいが、一代の名工が、十一年の年月、世を憚る密室のうちで、心血を濺いで稀代の活字字母をつくりださうと苦心するさまを想像すると、百年を距てて特に活字に縁のある私には眼頭の熱くなる思ひがある。「又別に銅にて作れる鋼鐵を用ひて三個の長方形なる金物を組み合せて、字母を嵌めこみたる穴に、圓形なる器にて鉛を注ぎこみ、穴を縱の上部より底通迄に鐫りぬきて、尚空氣穴をうがてる鑄造機を造りて云々」ちよつと素人には理解しにくいか知れぬが、これはつまり「手鑄込み器」の説明である。同じ嘉永の四年には、本木昌造も既にこれをつくり出してゐるが、長崎と江戸と距てては相知るところがなかつたであらう。そしてもつとはるかなる感慨は、これよりも十五六年以前、西洋暦にして千八百三十四年アメリカのデヴイツド・ブルースが、所謂「ブルース式カスチング」を發明して、世界の印刷術界に革新をもたらしてゐることである。私たちは幼時この※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉式の「ブルース式」によつて育つたが、いま嘉平や昌造の苦心を傳へ讀んで、「ブルース式」から「手鑄込み器」の歴史まで遡ることができるのだ。
そして嘉平の困苦はまだつづく。十年めに一應出來あがつた活字製法は、木や銅に手で彫つた種字が、實用に堪へぬうちに破損してしまつた。「しかし以上の方法でも種字は破損しやすく、徒らに年月を費し、嘉平は齊彬公樣の御意に報い得なかつた。――偶々島津侯の邸内に月々理化學の講義があるのを聞知し――一日偶々同邸において和蘭人に出會し、電氣學の一部を研究することを得、是より蝋石面に種字を凸形に彫刻し、高度に溶解せる液體の中に浸漬し――」云々と。これは川本幸民の「遠西奇器述」で説くところの電胎法である。
斯くして、嘉平の活字字母は出來上つたのだといふ。そこで私は考へるのだが、島津ほどの大藩であつたから、或はオランダ人もその江戸邸に出入することも出來たか知れぬ。齊彬から二代か以前の島津重豪などは、新知識を學ぶために蘭人を厚遇したといふし、オランダのカピタン・ヅーフなどは江戸參府の歸途、島津江戸邸の門前を通過するときは駕を降りて、日本流に敬禮したと、彼自身の「日本囘想録」に見えてゐるくらゐだから、或は信用していいか知れぬ。しかしそれよりもつよく、當然私らの考へにはいつてくるものは、「島津侯に祿仕せしめられ」た川本幸民であり、幸民と嘉平とのつながりであらう。殊に「月々理化學の講義云々」を思へば、直接ではなかつたにしても、この學者と名工が科學の絆によつて、何らかの形でむすばれたらうと想像することは無理であらうか。
ところで私は「嘉平の活字」の行衞を追つかけなくてはならない。手がかりは二つあつて、一つは前記の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」中の末尾に見える、嘉平の活字がサツマ辭書の印刷に用ひられたといふのであり、いま一つはK・H氏が私に見せた大福帳型のオランダ單語篇と、同じくK・H氏が「八王子の活字」と稱ぶところの、やはり蘭書「濟生三方附醫戒」である。單語篇のイタリツク風の活字は既に見た。「濟生三方附醫戒」はK・H氏もまだ見てないらしいが、同氏が「八王子の活字」と名づけてゐるところの所以たる、ある文獻を貸してくれた。それは第千百五十號の中外醫事新報と、同第千二百八十六號別刷の薄つぺらな古雜誌である。そのどつちにも陸軍軍醫中將秋山練造といふ人が書いてゐるが、別刷の方には「安政五年父の飜刻せる蘭書「濟生三方附醫戒」について」と題してある。
練造氏の文によれば秋山氏は代々八王子に住んで、「濟生三方附醫戒」を出版した先代方齋は「幼名佐藏と云ひ、祖父の死後家と名を襲ぎて、義方と稱し、醫にして士であつ」た。安政五年の出版で、蘭書フーフエランドの寫本を原稿として鉛活字で印刷したといふ意味が述べてあり、練造氏の幼時の記憶によれば「又活字も診察室の戸棚に澤山あつたものでした。それが皆我家全燒の時失はれて――活字の鑄型が二個殘つて記念となつてゐるのみです」。また別のところでは「印刷に用ひた活字は少くとも五種を見ることが出來る。即ち大文字大中二種と、同じ大文字ながら少しく右に傾むいたもの、並びに小文字及イタリア風小文字である」。
寫眞でみる同書の製本は粗末で不細工ではあるが、ハイカラな英語のリイダアでもみるやうな洋裝であつた。鑄型が殘つてゐるといひ、「之を緒方博士所藏の蘭本原文と比するに文章は勿論同じだが、第一には、活字の大きさが違ふ爲各行が必ずしも同じ
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