交通事情と多忙だつた大鳥の生涯からして仕方ないとしても、この磊落な政治家らしい口吻のかげには、どつか學者として或は發明家として眞摯なものが足りない氣がするのだつた。
 數日後、私は牛込にK・H氏を訪ねた。K・H氏は×××印刷會社の重役で、もう殆んど白髮の脊のたかい人だつたが、めづらしい印刷文獻をたくさん蒐めてゐて、親切に奧の室から一束づつ抱へてきては見せてくれた。なかには村垣淡路守(?)一行が歐洲行をしたとき、オランダから贈られた疊半分もあるやうな「鳥類圖譜」の大きい革表紙石版刷りの本があつたりした。初版「本草綱目圖譜」の見事な木版印刷に見惚れたりして、殆んど一日を過してしまつたが、K・H氏は昌造の「新塾餘談」第一篇上下、及び「祕事新書」一卷をも蒐めてゐた。主人に失禮ではあつたが、私は一ととほり讀ませてもらつた。そしてここでも私は失望してしまつたのである。
「新塾餘談」第一篇二册には、たとへば「燈火の強弱を試みる法」と題して、「この法は例へば石炭油の火光は蝋燭幾本の火光に等しきやを知らむためなり」といつた風に説いてある。その他「醤油を精製する法」「雷除けの法」「亞鉛を鍍金する法」「假漆油を製する法」「ガルフアニ鍍金の法」といふやうなことばかりで、他には何もなかつた。「上」の方には「緒言」と題して、「予嚮に祕事新書と題する一小册を著はす、專ら居家日用の事に關し、頗る兒戲に似たりと雖も又聊か益なしとすべからず、猶次篇を乞はるること切なり、されば事の多きを以て默止せしを、ちかごろ予が製する所の活字稍その功なるを以て、このたび倉卒筆を採り編を繼ぎ、更に新塾餘談と題し、毎月一二度活字を以て摺り、塾生の閑散に備ふ、これその餘談と題する所以なり、素より文字を以て論ずるものに非ず、見る人その鄙俚を笑ふこと勿れ」と述べ、彼の別號で――笑三識――とあつた。
「祕事新書」は文久二年の著述であるが、これの内容も「透寫紙の製法」とか「硝子《ビイドロ》鏡の製法」とか「水の善惡を測る法」とか「石鹸の製法」「流行眼を治する法」とかいふ類のものばかりで、私がさがしてゐる彼の風貌がうかがへるやうな、意見や主張を書いたものではさらになかつた。
「昌造の意見を述べたやうな著書はないでせうかネ。」
 私はK・H氏に訊いた。本木の著書は多い方ではない。しかも私の見た五册をのぞけば他は題をみてもわかるやうに、數學とか物理とか、英語や蘭語の辭典みたいなものが殆んどである。
「さア、たぶんないか知れませんよ。」
 K・H氏も首を傾げながら云つた。私はすこし途方にくれた氣持になつた。あんないろんな仕事をした人物が、何の意見も理想も持たなかつたのだらうか? 私はいつか病院で三谷氏が云つた言葉を思ひだしてゐた。「本木は、つまり工藝家だネ、器用で、熱心で……」。そのとき私は不滿だつたが、やはりただの器用な工藝家なんだらうか?
「それから何ですネ、電胎法による活字字母の製作は、昌造以前にもあるんですよ。」
 ぼんやりしてゐる私の耳許で、K・H氏が云つた。
「江戸神田の木村嘉平といふ人が安政年間に島津齊彬に頼まれてそれをやつてゐる。また電胎法のことは嘉永年間に川本幸民が講述してゐるし、たぶん實驗ぐらゐはやつたでせうな。」
 これが證據だといふ風に、K・H氏は數册の書物を私の手に持たせた。一つは黒茶表紙の古びた寫本で「遠西奇器述」といふのであり、木村嘉平のことを書いたのは、片手で持ちきれない大きな本で「印刷大觀」といふのであつた。
 私は私の主人公がだんだん箔が落ちてゆくやうな氣がしてゐた。主人のてまへ蟲の喰つた寫本を一枚づつめくつてゐるものの、少しも文字づらは眼に映つてはこなかつた。「ま、本木昌造の功績といへば、近代活字を工業化したといふ點にあるんでせう。」
 私は心のどつかでしきりと抗はうとするものを感じながら、K・H氏のゆつくりと結論する言葉を聽いてゐたが、K・H氏の川本幸民や、木村嘉平についての説明を聽けば聽くほど、私の抗はうとする氣持は、よけい窮地に追ひこまれていつた。
「要るんだつたらお持ちなさい、ええ、ぼくはいま使つてゐませんから。」
 私は「遠西奇器述」の寫本と、他二三の書物を借りて風呂敷につつんだが、それはたぶんに負惜みみたいな氣持であつた。私は親切なK・H氏に見送られて玄關を出たが、すつかり悄氣てしまつてゐた。

      二

 すこしばかり出來かかつてゐた本木昌造のイメーヂは、私の頭の中で無殘にくづれていつた。最初のうちは「遠西奇器述」の寫本など見る氣がしなかつた。私の頭の中には、白髮の總髮で、痩せた細おもての燃えるやうな理想と犧牲心とで肩をそびやかした昌造の横顏が、かなり濃く映つてゐたが、いまはぼやけて、至つて平凡な、少々手先が器用で、物ずきで、尻輕な、どつか田舍の藪醫者みたいになつてゐた。
 つまり、私の主人公はえらくなくなつてしまつたのである。大鳥が鉛をはじめて活字のボデイとして實用化したり、木村が電胎法で最初の活字字母を作つたとしても、それとは無關係に、嘉永の初期からこつこつと、二十餘年をつづけたといふ昌造の辛苦の事實を忘れたわけでもないが、彼の理想や觀念は著書にも見ることが出來ず、何かトピツク的なことがなければ工藝のことなど、それ自體としては小説にはとらへどこがない氣がするのであつた。
 私は主人公を見失つて、もう止めようかなど考へながら、漫然と洋學の傳統など調べては日を暮した。しかし、しばらく經つうちに、幕末の、殊に安政以來の洋學はその政治的事情から、ひどく實利的に赴かねばならぬといふことを知つた。天保十二年に渡邊崋山が自殺し、嘉永三年に高野長英が自刄してから以來といふもの、洋學者たちはただその實利性のみに頼つて生き得たといふ傾向は、昌造たちにも影響せずにはゐられまいと考へることが出來た。たとへば昌造の「新塾餘談」の序文にある――素より文字を以て論ずるものに非ず、見る人その鄙俚を笑ふこと勿れ――といふ文句も、そんな眼でみれば意味が無くはない。
 それに工藝とか科學とかいふものは、それ自體が、いはば理想の顯現ではなからうか。觀念の世界とはちがつて、ただ才能があるだけで、或は環境や條件のせゐで、ないしは功名心や利害關係だけでも、發明や發見や改良をするやうな偶然も、けつして尠くはないにちがひない。しかしそれでも根本を引き摺つてゐるものは、それぞれの差異はあれ、大きく云へば理想にちがひなからう。昌造の著書がみんな「雷除けの法」とか「流行眼を治す法」とかばかりであつたとしても(いや私は全部讀んだわけでないから斷定もできぬが)、それも彼の理想の一端ではなからうか。當時の世情からすれば、「石鹸を製する法」でも、「水の善惡を測る法」でも、新知識であつたし、彼の「緒言」にあるやうに讀者がもとめたものであらう。殊に近代活字創成のための二十年間の辛苦をひつぱつていつたものは、單なる功名心ではないにちがひない。
 私の頭の中では、以前とはだいぶちがつた形で、昌造のイメーヂが映りはじめてきた。私の主人公はえらくなくはないが、つまり偉人などといふものではなかつた。これといふ奇行も特徴もないが、器用で、熱心で、勉強家で、法螺もふかず、大それた慾望も持たず、ひたすら世のために、人のために役にたつことを理想としてはたらいた、眼のきれいな痩せた老人だつた。
 こんな老人にとつては、「活字の元祖」爭ひなど無用にちがひない。それを爭つてゐるのは他ならぬ私自身であつた。大鳥圭介が鉛を活字ボデイに實用化した功績も讃へようではないか、川本幸民が電胎法を祖述した功勞にも感謝しようではないか。木村嘉平が島津の殿樣に頼まれて、電胎法による活字字母を創つた辛苦も賞讃しようではないか。發明とか改良とかいふものが、すべてそんなものなのだ。天氣晴朗なる一日、何の誰がしが忽然と發見するやうな、そんなものではない。グウテンベルグの發明にも、その前後に澤山の犧牲的な研究者があつたればこそだ。本木はたまたまその最後の釦をおした代表者だつたのである。そんなつもりで私はこの老人の傳記を書けばよいのだ。私はひとりでに、をかしくなつてきた。私が元祖爭ひをして憂鬱になつたのは、じつは私が勝手に頭の中ででつちあげてゐた、似もつかぬ小説の主人公のせゐだつたのである。
 ある日、私はくつろいだ氣分で「遠西奇器述」の寫本を讀んだ。これは幸民が口述したものを、門生田中綱紀と三岡博厚とが筆記したものである。門生田中は凡例の一に、「此篇ハ朝夕講習ノ餘話ヲ集録ス故ニ往々錯雜ヲ免レズ其説多クハ一千八百五十二年我嘉永五年撰スル所ノ和蘭人フアン・デン・ベルグ氏ノ「理學原始」ヨリ出ヅ直寫影鏡ハ數年前吾師既ニコレヲ實驗シ蒸汽船ハ本藩已ニコレヲ模製ス他ノ諸器ハ未歴驗セズト雖其理亦疑フベキコトナシ」と書いてゐる。田中は何藩か私にわからぬ。この寫本に年代も記されてないが、新撰洋學年表によると嘉永元年の項に「川本幸民始て寫眞鏡用法を唱へ出し又燐寸の功用を説く」とあり、嘉永四年の項に幸民の著述例のうち『「西洋奇器述」等の著あり』とあるから、この凡例の「嘉永五年云々」は少し怪しく、も少し以前だつたかと思はれる。とにかく寫眞や蒸汽船やを説いてゐるうちの一つに「電氣模像機」といふ題で口述してゐるのがそれであらう。
「此術ハ一金ヲ他金上ニ沈着セシムル者ニシテ金銀銅鐵石木ヲ撰バズ新古ニ拘ラズ其上ニ彫刻スル所ノ者ニ銅ヲ着カシメコレヲ剥ギテ其形ヲ取リ以テ其數ヲ増ス次圖ハ其製式ナリ」とあつて、以下は幾つも圖解して綿密に説いてある。今日からみればごく初等な電氣分解の原理であつた。一つの容器に稀硫酸と他に目的とする銅粉をいれた液體の中に、二つの金屬板をたてて極板とし、これに電氣の兩極をつなぐ。すると一方の極から一方の極へ電氣が流れてゆく作用で、分解した銅粉は一方の極板に附着する。電胎法と稱ばれる今日の活字字母の製法は、これを二度繰り返すことで母型をつくるので、例へば最初の種子《たね》、「大」なら「大」といふ字を彫刻した凸版(雄型)に一度この法を用ひて雌型(凹字)の「大」をとり、いま一度繰り返して、こんどは雌型「大」から雄型「大」をとるのである。
「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ルコレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フベシ」と説いてゐるが、これで讀むと幸民は鉛のボデイをふくめた鑄造活字のことまでは思ひ及んでゐないと思はれるが、「其欲スル所ニ從テ其數ヲ増スヲ得其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラズ」と述べてゐるあたりは、或は實驗くらゐやつたか知れず、電氣分子による分解作用のいかに零細微妙であるかに感動してゐるさまが眼に見えるやうである。
 川本幸民は醫者であつた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、「幸民は裕軒と號し攝州三田の人。幼い時藩の造士館に學び、二十歳江戸に出て足立長雋の門に入り、後坪井信道に就いて蘭醫學を受け、緒方洪庵、青木周弼と名を齊くした。天保三年其藩の侍醫に擧げられ、安政三年四月蕃書調所の教授手傳出役となり、四年十二月教授職並に進み、六年七月遂に教授職となる。文久二年徴出されて幕士になる。「氣海觀瀾廣義」「遠西奇器述」「螺旋汽機説」「暴風説」等の著述があり、親ら藥を製し又玻※[#「王+黎」、第3水準1−88−35]版寫眞を作り、又阮甫と前後して薩摩の邸に出入して、島津齊彬侯の爲に理化學上の事などを飜譯又は親試したこと尠くなかつた」とある。また洋學年表安政元年の項によれば「島津齊彬曾て川本幸民の記述「遠西奇器述」を讀み西洋造船法を知りたれば其主九鬼侯に請ひ祿仕せしめたり」とあるし、勝海舟手記による安政二年頃の江戸在住蘭學者たち、杉田成卿、箕作阮甫、杉田玄端、宇田川興齋、木村軍太郎、大鳥圭介、松本弘庵など俊秀のなかでも、幸民は特に理化學に擢んでてゐたといふ。しかも、この頃の學者たちは、西洋の本を飜譯するといふだけではなかつたのだ。たとへば嘉永の始めごろ幸民がある男に燐寸の話をしたところ、相手は實際そんなことが出來るなら百兩やらうと云つた、す
前へ 次へ
全32ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング