語を心得候もの無之、當方通詞共儀も、亞米利加語は昨年來自分心得にて端々聖か相覺申候得共、込み入り候儀に至候ては何分通じ兼ね――」といふ次第であつた。
その「通じ兼ね」る通詞でさへ「――昨年來數年手掛け罷在候通詞堀達之助儀は、當節病氣にて引籠――右に付談判出來不申、甚差支候に付、定めし御地も御用繁に可有之御座候得共、若々御繰合出來候はば、御普譜役[#「御普譜役」はママ]森山多吉郎を右談判相濟候迄御差越被下候樣――若右樣難相成候はば、通詞本木昌造にても早々御差越被下――」云々。この文でいふ談判とは下田柿崎村玉泉寺に、船をプーチヤチンに借りられた捕鯨船乘組のアメリカ人男女數十名が滯在してゐて、その始末についてアメリカ人との交渉である。ところが川路から下田奉行への返翰でみると、その本木昌造も劇務のため病氣になつてゐるし、森山はまた川路の手足となつて、日露修好條約の後始末をしてゐるのだから手が離せない。さればといつて玉泉寺のアメリカ人も勝手放題に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて放つてはおけない。「――此上は昌造儀病中には候得共、此節柄餘儀なき場合に付、駕籠にて成共、押して出勤爲致度、御用相勤候樣――申渡候に付、明後朝頃は必定其地到着可致候間――且又今七ツ時頃、夷船遠沖に相見え――」云々と、下田奉行へ川路は書いた。
まつたくの非常時局で、通詞はその最前線であつた。これは三月四日付戸田村からで、「夷船遠沖に相見え」は、翌五日最初に下田沖に出現したフランス軍艦のことらしいが、通詞らはその軍艦にも一々乘付けて來意をただし應接しなければならない。昌造が病躯をおして駕籠にゆられながら十里の山道を下田に越えねばならぬのも「餘儀なき」ことであつた。
下田の町を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのは玉泉寺のアメリカ人ばかりではない。プーチヤチン歸國後もまだ船が足りずに百人前後のロシヤ人が殘つてゐた。その他あらたに入つてくるアメリカの他の捕鯨船などもあつて、準備の出來てない當局役人は取締に繁忙をきはめた。幕府傳統の切支丹は取締らねばならず、「當港之儀は異人遊歩をも被差免候事に付、きりしたん宗之儀、彌々に停止之、不自然なるもの有之節、申出御褒美被下候儀、若しかくし置あらはるるに於ては、夫々被行罪科候――」といふ觸書が出、「町在之もの、異人と直賣買堅致間敷」といふ觸書が出、「町在とも、若異人より音物等相送り候共、一切受申間敷、幼年之者など、何心なく貰ひ受候とも、早々奉行所え可申立、萬一かくし置きあらはるるにおいては――」といふ觸書が出た。
それでも異人共は日々の生活品を求めて町々を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る。異人相手の公許の日本品賣買所である「缺乏所」の商人も異人相手に片言の異人語なり手眞似で通ずることを止めねばならなかつたが、「無筆」のアメリカ「マタロス」どもは、日本字は勿論蘭字も讀めない。「缺乏所之儀、此程御談判之上、町人共と夷人直に引合致さざるため日本字値段之脇之蘭字をも認めさせ、右にて不便之事も有之間敷と取計らはせ候處、マタロスの類ひに至り候ては無筆の者有之、是迄の仕來りを以て、居合せ候町人共へ値を承り候得共、言葉を替せ候儀不相成故、終には憤り、手を振り上、又は口などつねり候――」といふやうなわけで、ここにも通詞が至急必要だと下田取締配下の平山謙次郎から川路へ愬へ出た。
まつたく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることが出來なくなつたばかりでなく、「オランダ語の通詞」であることさへ出來なくなりつつあつた。日本全國の港々の通詞でなければならず、蘭語は勿論、英語、露語、佛語の通詞でなければならなくなつてゐた。そしてもつと重大なことは、いま一つ彼等通詞が、單に通辯であることだけで止まつてゐられなくなつたことであらう。異人語に通じて異人の文化を知つた以上、そして祖國がそのために困難に陷つてゐる以上、彼等はその人間個性を通じて、夫々の方面に分化し、夫々に實踐しなければならなかつたのである。
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最初の印刷工場
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一
第三囘めのロシヤ使節が長崎へ來た嘉永六年は昌造三十歳であつて、この年はじめて父となつてゐる。當時の慣習からすれば晩い方であらうが、妻女縫はこのとき十五歳で長男昌太郎を産んだのである。三谷氏の「詳傳」家系圖によれば、縫は養父昌左衞門と後妻クラとの間に、天保五年四月に出生したのだから、正確には十四年と何ヶ月であり、ずゐぶん若いお母さんである。したがつて昌造らが結婚したのは、恐らく昌造二十八九歳、縫十三四歳のときであつたらう。
縫と昌造は從兄妹同志である。「印刷文明史」の著者は「氏は元服を加へたるとき、家女と結婚し、間もなく家業の通詞職をも襲ぎしが」と書いてゐるが、昌造元服は十五歳だから、縫はこの年生れたばかりで、つまり赤ン坊と許嫁の式を擧げたのであらう。
もちろんかうした結婚風習は江戸時代の世襲制度と深く結びついてゐる。通詞には古くから一種の試驗制度があり、幕末期には對外關係の急激な膨脹から新規取立の通詞も澤山あつたやうだが、特別の缺陷がない限り、武家と同樣、世襲制度は強力に生きてゐた。このことは日本の文書にも明らかだし、シーボルトやゴンチヤロフの手記にもみえる。昌造が昌太郎の父となつたとき、養父昌左衞門はまだ「大通詞兼通詞目付」として羽振りをきかせてゐた。そのことは「長崎談判」の折、ロシヤ使節側から幕府委員及び立會の通詞たちに贈物をしたとき、その談判には直接たづさはらなかつた昌左衞門を通詞側の筆頭にして、「通詞目付本木昌左衞門へ、銀時計一個」と「古文書――卷ノ七」に記録されてあるのでも明らかである。通詞目付は通詞取締といふ役目で、「洋學年表」元祿八年の項に「十一月長崎和蘭通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て補さる」とあり、世襲して昌造はその六代目を約束されてゐたわけであつた。
縫は昌太郎の次に安政四年小太郎を産んで、その翌年七月死亡した。長男昌太郎はそれより四ヶ月前、縫に先だつてゐるが、小太郎は明治になつてから、民間に始めて出來た活字製造會社「東京築地活版」の社長となつた人である。のち、昌造は後妻タネをむかへ、清次郎、昌三郎をなし、他に妾某との間に娘松があり、晩年には子供は出來なかつたが妾タキがあつた。娘松を産んだ妾某は、元治元年昌造が八丈島に漂流した折にできた女であるが、かうした多端な過程にみても、彼の結婚生活はあまり幸福ではなかつたやうである。後妻タネの死亡年月は不明であるけれど、清次郎を元治元年に、昌三郎を慶應三年と、矢繼早に産んで、それきり後絶してゐるのをみると、二度目の妻にも先だたれたのか知れない。いはば女房運の惡い人であつて、そのことが最初の妻縫が十三四歳で結婚し、十九歳の短生涯で終つたことや、昌造が生れたての赤ン坊と結婚式を擧げねばならなかつたことや、そんな不自然さと結びついてゐるやうに私には思へてならないのである。
昌造自身、かういふ當時の男女風習についてどんな見解をもつてゐたか、彼の今日殘る著書のうちにも示してゐないのでわからないが、假に何らか新らしい見解が彼にあつたとしても、さういふ風俗なり慣習上の問題は當時の過渡的な政治や科學よりむづかしいもので、明治の維新なくしては考へられぬことであらう。彼は一般に科學者とだけみられてゐるし、彼の著書もそれ以外には見ることが出來ぬやうである。「印刷文明史」の著者は、明治四十五年昌造へ御贈位の御沙汰があつたとき、當時在世中であつた昌造の友人諏訪神社宮司立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねて、昌造についての感想を求め、次のやうに書いてゐる。「――當時氏の眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚ほ足らずといふ有樣であつた。此頃に於ける我が國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば無暗に砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、心中私かに開港貿易の時機到來を信じてゐた。然して早晩――通商條約が締結されるであらうと考へ、先づ外國の人情風俗工藝技術の如何にも悉く調査研究して、豫め外國に對する方策を定め、世を擧げて鎖國論に熱中して居たに拘らず、氏は心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐたのである。」
昌造在世中の友人、門人のこの感想も今からは三十數年前のことで、再び求むるに由ない貴重なものであるが、文章があまりに抽象的で殘念な氣がする。時代も天保十三年の「異國船打拂令改正」以前のやうにも思へ、また神奈川及び下田條約以後の、つまり萬延、文久頃の五ヶ國條約實施問題をめぐる攘夷論沸騰時代のやうにも思へて甚だ曖昧であるが、とにかく「眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた」とか「毫も之に心を藉さず」とか「心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた」とかいふへんは、嘗ての友人や門人やが傳へる昌造の性格の一面としてそのまま信じてよいだらう。つまり昌造はその頃の日本人が當面する大きな仕事として、海外の科學を吸收してわがものとすることに一切を打ち込んでゐたのであらう。
そして彼のこの特徴的な性格は、「長崎談判」のときプーチヤチンから彼と楢林榮七郎だけに贈られた「書籍一册づつ」「ロシヤ文字五枚」といふ事柄や、ペルリの通譯官ポートマンから森山榮之助へ與へた書翰にみる昌造への傳言文など。殊に下田談判のとき、昌造だけがひとり戸田村のスクーネル船工事場付の通譯であつたことが、對幕府的にもあまりはえ[#「はえ」に傍点]ない場所に自らもとめて行つたやうにも思はれるし、これらを思ひ合せると、どつか符節が合するやうで、時代を超えてとほくを見詰めてゐるやうな科學者らしい風貌がうかんでくる。
昌造が下田から長崎へ戻つてきたのは、安政二年の何月だか現在の私にはわからない。プーチヤチンの下田退帆が三月二十三日で、まだ乘組員の一部は殘つてゐたし、いろいろ後始末もあつたらうから御用濟はそれより若干遲れてゐよう。また公用の暇々には、造船や蒸汽機關などにも當時としては先覺であつた彼など、「大船建造禁止令解放」直後の、造船熱の旺んだつた大名などに招かれたりしてゐるから、眞ツすぐに長崎に戻つたか否かもわからない。しかし同年七月長崎に出來た永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍傳習所の傳習係通譯となつてゐることは前記した通りだから、夏には確實に長崎へ戻つてゐたわけである。嘉永六年七月以來足かけ三年、昌造は文字通り東奔西走であつたわけで、このことは縫が長男昌太郎を産んで、次男小太郎を産むまで、嘉永六年から安政四年まで四年間のあひがあるといふこととも比例してゐる。
安政元年の七月に、昌造が土佐侯の築地の造船場にゐたことは前に述べた。「吉田東洋傳」に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくるが、恐らく彼は九月中旬まで江戸にゐて幕府天文方の仕事をしてゐたのだと思はれる。つまり神奈川條約成立後、ペルリの退帆が六月で、九月下旬大阪の安治川尻にあらはれたプーチヤチンの船へ幕府の諭書を持參するまでの期間である。それに箱館奉行經由のプーチヤチンの書翰を森山(當時榮之助)と連名で飜譯してゐる事實からみて、天文方の仕事もしてゐただらうと判斷するわけであるが、「東洋傳」によれば、昌造は江戸において最初の洋式船舶建造の功勞者といふことになつてゐる。
「安政元年七月、長崎の通譯本木昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて江戸に入る。八月廿九日、豐信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聽き、携ふるところの蒸汽船の模型を見、隨從の工夫幸八に命じて、更に模型を作らしめ、幕府に請ふて試運轉を爲す。是れ江戸に於て、洋式船舶製造の濫觴なり――」
吉田東洋は土佐藩の船奉行で開
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