があり、調印後十八ヶ月を經て云々とあるが、阿部は「――神奈川條約已に誤れり。然れども彼は猶曖昧として後日談判の餘地なきに非ず。是れは明々に官吏を置くを許す。應接係の内にも左衞門尉の如きは才幹傑出の士なるに――遺憾の至りならずや」であつた。川路の處置が單なる先條約に準據した事務的な行過ぎであつたか、或は開港する以上、この處置は當然のこととする開國進取的な信念からであつたか、その日記にみても明らかでないけれど、尠くともロシヤ使節の武力やなどに氣壓されての結果でないことは明らかだと思へる。徳富蘇峰氏も「和親條約を結べば、領事を開港場に置くは必然の事。――如き不見識を――阿部正弘さへ暴露しつつあるを見れば――幕府對外の大方針、大經綸の、遂に定まる所なかりしも、亦宜べならずや」(近世日本國民史卷三十三)と書いたやうに、鎖國因循の氣風は嵐のやうな對外關係の改革期にあつても、その第一線に活動する人々の頭上を陰に陽に蔽うてゐたのであらう。安政二年二月二十四日付、伊豆戸田村寶泉寺においての川路對プーチヤチンの、この第六條取消談判の會話記録は、川路の苦衷を傳へて遺憾がない。
 左衞門尉
「――長崎以來の心盡しを不被顧、斯迄申談候儀をも、更に聞承不申候ては、拙者政府え對し申譯も無之、實に生死に拘り候次第に陷入候。然る上は右等之事は筑後守へ引渡し、以來一切拙者取扱申間敷候。
 布恬廷
 折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成、乍去、一昨年來遙々御出張、御苦勞も被成、殊に厚き御談故、何とか御談之廉相立候樣、御受可仕候、尤御即答には難相成候間、暫く御猶豫被下候樣仕度候。
 左衞門尉
 大慶いたし候、此方之迷惑は先達て使節、宮島沖にて難船におよび候節之比例には無之候。
 布恬廷
 條約之儀昨年以來厚く御心配被爲在候て、御取極相成候儀に付、政府御不承知之儀無之事と存候處、はからずも右等之次第を承り驚き入候。
 左衞門尉
 時分にも相成、麁末之辨當申付候、相用候樣可被致候。――」
 川路が「生死に拘り候」と云つたときの顏色はもはや切腹を覺悟してゐたにちがひない。それを「折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成」と、一旦はつつぱねたプーチヤチンのふとさ。このへん數行は男二人の力比べで、左衞門尉が「時分にも相成、麁末之辨當申付候」といふところで大舞臺の幕切れといふ趣きであるが、川路が己れの生死に拘るといひ、この上は筑後守(さきの長崎奉行で、次席應接係であつた)へ引渡して自分は取扱はぬ、つまり一切を白紙に還元してしまふぞといふところと、プーチヤチンが「御取極相成候儀に付――はからずも右等之次第――驚き入候」といふあたりの對比は、川路一個にとつての恨事であるばかりではなかつたらう。

      四

 日露下田談判のときも、通詞昌造の活動はあまり明らかでない。榮之助改め多吉郎は、このときもはや末輩ながら幕府直參だから、その活動が主體的に記録に殘つてゐるが、同じ通詞としてこのときはたらいた堀達之助にくらべても表だつた記録が尠いやうだ。ペルリの「日本遠征記」などには、當時の長崎通詞が殆んど殘らず記録されてあるのに、昌造だけがない。しかもペルリの通譯官として最も活動したポートマンが、特に昌造について注目してゐる前記の榮之助宛書翰を思ふとき、何かしら昌造の性格の一面がそこらにある氣がする。これはのちの話にもなるが、彼は通詞としては生涯「小通詞過人」から陞ることがなかつた。初代庄太夫以來世襲的な「通詞目付」として、長崎通詞最高の家柄であつた彼が「小通詞過人」から陞らなかつたといふことは、常識的にみて不審の一つである。長崎談判以來、大きな外交事件には引續き拔擢されて參加してゐるから、語學や通辯力量に劣つてゐたとも思はれないが、そのへんに長崎通詞一般とちがつた、どつか己れの科學的才能と共に思ひをひそめた一克なところがあつたのではなからうか。
 安政元年十一月以來、つまり下田談判の中途から、彼はロシヤ人と共に伊豆の戸田村にゐたことが、「古文書幕末外交關係書卷ノ八」の記録によつてわかる。「昨十四日豆州戸田村到着仕候處――魯西亞使節私共着之趣承り急き面會仕度段、通詞本木昌造を以て申越候に付、直に使節罷在候寶泉寺へ御普譜役[#「御普譜役」はママ]御小人目付等引連れ罷越及面會――」云々。これは翌年二月十五日付で、ロシヤ應接係の一人、勘定組頭中村爲彌から川路宛の上申書の一節であるが、ロシヤ人たちは戸田村海岸で船をつくつてゐたのである。前年十一月四日の海嘯と、宮島沖でのフレガツト沈沒などで、ロシヤ使節は數百名の乘組員を歸國させるのに船が足りないでゐた。アメリカ捕鯨船を借用したりしたが、その間捕鯨船乘組のアメリカ人たちを上陸させ、待たせておく場所が困難で、幕府役人との間に起つた面白い※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話も幾つか記録にみえる。プーチヤチンは最初軍艦の建造を懇請したが、沖合に出沒してゐる英佛艦隊と中立地帶で海戰でもされては困るので、幕府は許可せず、運送用としてのスクーネル一隻が、ロシヤ人と日本人とで建造されつつあつた。
 翌二月十六日にも、川路へ上申した森山多吉郎からの上申書があつて、「今十六日、魯西亞使節多吉郎へ面會仕度旨、通詞本木昌造を以申立候に付、其節御屆之上幸藏一同と右宿寺戸田村寶泉寺え相越し面談仕候――」云々。プーチヤチンはスクーネルの建造をはじめてからは、監督をかねて戸田村の寶泉寺へ宿泊してゐた。したがつて昌造は造船場及び寶泉寺付として、當時の通詞中一ばんロシヤ人と接觸してゐたわけである。
 戸田村は下田から十里餘を距てた駿河灣の内懷にあるが、このときから日本ではじめて洋式の近代船を打建てた歴史的な土地となつた。スクーネルの建造は勿論ロシヤ人の設計で、ロシヤ人の船大工がこれに當つたが、日本人の船大工も澤山これに參加した。プーチヤチンは萬里の異境に在つて多くの船を失つた窮状を、日本側がよく諒解して建造に助力してくれた點について感謝した趣きは、彼自身の記録にも、また翌年ロシヤ政府の名を以て送られた感謝状にも明らかであるが、幕府としてもこの稀有な機會をつかんで洋式造船術を學びとらんとしたわけで、當時參加した船大工も、關東一帶の腕利きばかりを集めたと謂はれる。
 またロシヤ人たちも自分たちの技術を傳へるにやぶさかではなかつた。二月二十九日寶泉寺で會談したプーチヤチンは中村爲彌に次のやうに語つてゐる。「スクーネル新船之儀は繪圖面其外巨細之儀、川路樣え可申上、尤私出帆まで兩三日之日合有之候――スクーネル船日本にて御用ひ被成候節は長崎まで三日程にて相※[#「舟+走」、317−7]り申候、隨分御用辨に相成可申候――スクーネル船には、輕荷積入不申候ては不宜候間、石にても御積入可被爲、尤も荷數之儀は猶委細可申上候――」といふので、船底が深いから荷物が輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことであつたらう。
 川路も勿論この新造船に充分の關心を持つてゐたわけで、二月二十四日の日記に「晴、五ツ半時戸田村大行寺之魯人使節布恬廷呼寄候て及應接、夫より魯船製作所へ參る、日本之船大工異國の船大工集り候て働居申候、日本の方今は上手に相成候由――」と書いた。プーチヤチンから贈つたスクーネル繪圖面一切は川路より老中へ送られ、阿部は「――伊勢守殿へ御覽に入れ候處、軍艦には不相成共、至極便利之船に相聞候間、いづれにも一艘早くに打建」てよと命じ、ここに洋式造船術の一部がわがものとなつたわけであつた。
 このスクーネル船は長さ十二間、幅三間で、時の値段で三千餘兩かかつたと誌されてゐるが、前記の「古文書――卷ノ九」の冒頭にはこのスクーネルの進水式の繪がある。作者はたぶん伊豆代官江川の家へ食客となつてゐた無名の畫工だらうと謂はれる。その繪は當時の形を傳へて面白い。銅張りの船は青いロシヤ國旗を掲げていま水面に辷り出したところ、まはりには兩手をたかくあげた水兵風のロシヤ人大工たちと、丁髷に鉢卷、股引に草履の日本人大工たちが腕拱みして見おくつてゐる。群衆のなかに一きは背のたかいロシヤ人で何か祷りを捧げてゐるらしい宣教師と、羽織の裾を刀でピンとつつぱつた日本の侍とが、ならんでたつてゐる風景も歴史的な感じがでてゐる。
 プーチヤチンはこの新造船に乘つて歸國した。三月二十一日に一度出帆したが、沖合に待ち伏せてゐる佛軍艦を發見して引返し再び二十二日に出帆、やがて沖合に姿を消した。このスクーネルが銅張りだつたことは、まだわが國が鐵板製造に未熟だつたせゐであらう。ロシヤ人はスパンベルグ以來、いつもオホツク港で鐵張りの新船を建造する慣はしで、プーチヤチンも日本下田で船をつくらねばならぬ窮地に陷らうとは考へてゐなかつたにちがひない。「魯西亞人下官之内、船大工之者三四人有之、其餘大工鍛冶心得候者有之候間――布恬廷並士官之内三四人自身繪圖面歩割等以墨掛注文仕、多くイギリス國之書籍を以證據と仕候旨、通詞のもの申聞候――」といふ川路から老中への上申書中にみえる文でも、せいぜい破損修理に備へるくらゐの技術者たちであつたらう。海軍中將プーチヤチンはじめ半ば素人が總がかりでスクーネル一隻を作つたわけで、それは却つてこれに參加した日本船大工にもおぼえやすかつたらう。文中「通詞のもの」とあるはたぶん造船場付の昌造にちがひなく、彼はロシヤ人について伊豆一圓を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた木材買入れの最初から、その進水式まで關係してゐた。三谷氏の「詳傳」によれば、このときの昌造の勞苦を謝して、翌年ロシヤ政府は金時計を贈つたとあるが、プーチヤチンは歸國に先だつて日本側委員に贈物したときも、昌造には「湯ワカシ一個、繪二枚」と記録にある。「湯ワカシ」とはロシヤ名物の「サモワル」のことと察せられるが、川路に「セキスタント一箱、寒暖計一本、繪五枚」、森山に「寒暖計一本、毛氈一枚」、堀達之助や他の通詞たちは「布地若干」などと比べると、ほんの贈物ではあるけれど、昌造がロシヤ人に比較的ふかく感謝されてゐることがわかるやうだ。
 しかし昌造たち通詞も嘉永末年以來、急速に忙しくなつてゐた。新たに開港された蝦夷の箱館にも常住の通詞をおくらねばならなかつたし、長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印のその日から捕鯨船などがやつてきて、アメリカ人が上陸徘徊するといふ次第で、長崎通詞はいまや長崎だけの通詞であることが出來なくなつてゐた。
「下田表に詰合罷在候阿蘭陀通詞之儀、是迄兩人に候處、異船渡來之節は、應接並びに飜譯もの、薪水食糧缺乏之品送り方等、勤向悉く多端にて、其上異人共遊歩の節、謂れ無き場所へ立寄候歟、又は多人數上陸等いたし、萬一混雜等有之候節は、通詞人少々にては甚だ差支へ、自然御取締にも拘り、其上當表之儀は、缺乏品、相調候ため渡來之異船而已にては無之、何國之船、何時渡來致すべきやも難計、此上共追々御用多に相成、迚も兩人にては手足兼――五人増人被仰付候樣仕度旨申立之趣も有之、いづれにても増人被仰付――尤も長崎表之儀も當節御人少之由、殊に重立候もの當表へ罷越候ては同所御用筋差支可申哉に付、小通詞助以下三人早々當表え差越候樣、長崎奉行え被仰渡候――」云々といふのは、二月二十五日に川路から老中宛の上申書で、その附書には、堀達之助、志筑辰一郎兩人下田詰合通詞の、下田奉行への増人方願文がある。
 まつたく下田詰合二人では無理であらう。蘭語に通じた學者や侍は、當時日本全國では尠くなかつたらうが、通辯となればまた別で、加へて通詞といふのは一種の職人として扱はれてゐたから、前文中にも見えるとほり、長崎奉行の支配を受けねばならず、たとひ蘭語が喋れる學者や侍でも、進んで通詞にならうとはしなかつたらう。おまけに長崎通詞は蘭語が主であるが、條約を結んだ相手は米、露等であつて、三月一日に下田奉行が川路宛に愬へた書翰に、「只今同所に罷在候亞米利加人共は、蘭
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