國論者、文久二年攘夷派の志士に暗殺された人である。この文にいふ「下田に來るの途次、轉じて江戸に入る」といふところは、前記したやうな昌造の動靜から推しても異つてゐるやうだが、いづれにしろ昌造が造船その他海外科學に造詣がある人間だといふことは、當時その方面の人に知られてゐたらしい。明治四十五年御贈位の内申書には「蘭話通辯」の他に「海軍機關學稿本」などがあつて、多くの印刷術發明に功勞のあつた人々が他の部門でもさうであつたやうに、昌造も日本の艦船發達の歴史では、その名前を缺くことの出來ない一人となつてゐる。「翌二年豐信參覲交代の期に際し、歸國の後之を高知に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]漕し、浦戸港内に泛べ、豐資その他連枝及び諸士に縱覽せしめて西洋事情の新奇進歩せる實物標本を紹介して、大いに頑夢を覺醒せしむるところありたり」
土佐藩士を「大いに――覺醒せしめ」たのは勿論吉田東洋のことを云つてゐるのであるが、土佐藩の洋式船舶建造が東洋の發起であるならば、昌造を推薦したのも東洋かと思はれるし、東洋と昌造は若干の知己であつたかも知れぬ。しかし土佐藩の洋船が日本で最初かどうかは疑はしい。土佐藩の船が築地で出來上つて、土佐の港で運轉したのは翌二年の八月だが、薩摩藩の昇平丸が江戸へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航してきたのは同じ二年の四月である。土屋喬雄氏の「封建社會崩壞過程の研究」によれば、薩摩藩は嘉永五年に蘭書に基いて蒸汽船雛型を作つた。表面は琉球警備に名を藉りて幕府の許可を得てゐたもので、水戸齊昭の主唱によつて「大船建造禁止令」が打破されるや、建造中のその一隻を幕府に獻納したものだといふから、「東洋傳」の限りでは一歩遲れてゐることになる。
しかしそれはとにかく、土佐藩は昔から船では名のある國で、土佐と薩摩は建艦競爭してゐたといふから、「禁止令」解放後先鞭をつけたことは疑ひなく、昌造としても生涯の名譽の一つであらう。昌造持參の蒸汽船模型がどんなものであつたか、それは今日何も傳つてをらぬのでわからぬが、大きな水溜か何かで運轉してみせたらしい。「東洋傳」中、引用の寺田志齋の日記は、それを見物してびつくりしてゐる。
「七月朔日(安政元年)晴天、九ツ過ニ退ク。遠江守樣御出ニ付、八ツ頃再ビ出動、直チニ退ク。長崎鹽田氏幸八ト云者、蒸汽船雛型持出シ、御馬場ニ於テ御覽アリ、實ニ奇ト云フベシ。右見物ニ暮前ニ出デ、日暮テ退ク」とあるから、その馬場は土佐藩士の見物でいつぱいだつたらう。
ここでいふ「鹽田氏幸八」は昌造が長崎から同道してきた大工幸八のことで、寺田の日記にみても、昌造監督のもとで實際は幸八が船をつくつてゐることがわかる。同じ四日には昌造自身で運轉してみせた。「晴、四ツニ出ヅ、今日長崎譯官本木昌造、蒸汽船雛型持出シ御覽アリ。朔日ニ上ツリタルヨリハ大ニシテ仕形モヤヤ精密ナリ、七ツ過ギ退ク。夜澁谷、傳氏ニ行ク、小南、朝日奈、出間ト同クス。四ツ時カヘル。昌造ノ咄ニ此度ビ、魯西亞、獨兒格(トルコ)ト戰ヒ、英佛ノ二國獨兒格ヲ援ク、魯西亞ノ軍艦十隻爲メニ英軍ニ獲ラル」と志齋は書いてゐる。四日の雛型は朔日のそれより大きく精密なものを昌造自身で運轉してみせたのであらう。この文で見ると、あとにつづく日記のそれと綜合して、昌造は土佐藩士澁谷傳氏といふ人の邸にゐたのだらうか。小南とか朝日奈とか出間とか、同藩士かどうかわからぬが、そんな人達がやはり來合せてゐて、昌造からクリミヤ戰爭のニユースなどを聽いてゐる容子がわかる。昌造の咄ぶりがどんなだつたか知る由もないけれど、海外の政治情勢と結びつけて、海外科學の紹介、海國日本の海防の急などが、恐らく寺田はじめ居合せた人々の腦裡に植ゑつけられた話の内容だつたらうと想像することが出來る。寺田志齋は東洋と同じく土佐藩の仕置役として藩政に參畫し、容堂の側用人を勤めたことがある。川路左衞門尉などとも親交があつたといふから、後年佐幕派連署組の巨頭となつたといふやうな當時の複雜な政治的經緯は別として、昌造の海外ニユースなどにもいつぱしの見解をもつて關心するほどの人物だつたにちがひない。
七月十六日にはまた澁谷へ行つて蒸汽船註文の事を昌造と相談し、二十四日は築地の造船場を他の藩士たちと共に下檢分してゐる。「終ニ本木昌造ヘ酒ヲ給ス」とあるから、昌造はその造船場で既に指揮に當つてゐたものであらう。八月朔日には「本木昌造ヨリ約束ノ品ヲ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]シ來ル」と、品名を匿してあるが、私の想像ではたぶん蘭書の類ではなかつたかと思ふ。蘭書は當時の志ある武士の多くが欲してゐたところで、しかもまだ特別の人以外には購求出來なかつたし、蘭書の種類によつては殊にさうだつたからである。八月五日には建造中の船の事で昌造と談じ、九月七日には「雨、出テ蒸汽船製造場ニ過タル、船ノ形、頗ル成ル」と書いてゐる。
昌造が土佐藩のために骨折つたのは、雛型作りだけでも一再でないし、工夫に工夫を凝らしたらしい。容堂の日記でみると、八月四日は「供揃ニテ、供※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]リノ面々モ馬乘ニ申付、砂村屋舖ニ相越シ、長崎之通辭召連レ、蒸汽船一覽セラル」とか、同八日には宇和島藩主伊達侯を招待して「夕方本木庄藏ト申ス通辭、蒸汽船持參致シ候ニ付、馬場ニ於テ伊達遠江守殿ト一所ニ一覽セラル、ソノ節中濱萬次郎モ呼寄セ――」と誌してあるから、昌造はこのときアメリカ歸りのジヨン萬次郎とも逢つたわけである。中濱萬次郎は漂民として嘉永三年日本へ歸着、後二年間は自由の身ではなかつたが、安政の開港以後その語學と海外知識を買はれて後幕府の軍艦操練所教授となつた人で有名である。土佐藩は幕府にさきがけて萬次郎を登用し藩士に列せしめてゐたから、このときも呼び寄せて昌造の雛型を彼の知識によつて批判せしめたものであらう。
神奈川條約成立以後は日本の上下をあげて近代的な大船建造熱が旺盛であつた。「閏七月(安政元年)廿四日、御用番久世大和守殿に左之伺書留守居共持參差出候處、被請取置、同八月廿三日、同所え留守居共被呼出、右伺書え付紙を以て被差返上、則左之通」と土佐藩記録にあつて、「今度大船製造御免被仰出候ニ付、爲試」と、一ヶ月の短時日を以て幕府も許可してゐる。昌造の雛型提示が前記したやうに七月朔日に始まつてゐるのだから、土佐藩の伺書提出はそれによつて決定したものだらう。そして昌造の雛型及び監督によつて建造された江戸において最初の蒸汽船はどんなものだつたらう。同じく土佐藩記録はその伺書の内容を次のやうに誌してゐる。「蒸汽船一艘、長サ六間、横九尺、深サ五尺四寸、砲數二挺」といふから小さいながら一種の軍艦であつた。「右之通雛型、築地於屋舖内、手職人エ申付爲造立度、尤長崎住居大工幸八ト申者、此節致出府居候ニ付、屋舖エ呼寄、爲見繕申度、出來之上於内海致爲乘樣、其上彌以可也乘方出來候時ハ、海路國許エ差遣シ、船手之モノ共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下候、以上、閏七月廿四日、松平土佐守」
船が出來たらばまづ江戸内海において運轉させ、それから國元土佐へ送つて藩の船手共へ習練させる、上達したらば江戸、大阪間を往復させるといふ意味であるが、文中幸八の名があつて昌造の名が出ないのは、昌造は長崎奉行配下で目下江戸出役中ゆゑ、幕府へは憚りあつたのであらう。
その船が雛型どほりうまくいつたか? またいつ出來あがつて、江戸内海でどんな風に試運轉したか? それはわからないが、翌年八月、その船が土佐へ無事※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航してきたことは、既に歸國してゐた寺田志齋の日記に見える。「四日、由比猪内ヘ過ク。夫ヨリ出勤。今日ハ早仕舞九ツ時退ク。――蒸汽船江戸ヨリ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]着ス」そして同じ八月二十三日には「――四ツニ出、八ツニ退ク。今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物ニ御出。余モ亦往ケトノ命アリ、先ヅ三頭ニ至ル。少將公御出也、頃之御歸座、遂ニ彼ノ船ニ御上リ、余モ亦隨フ、此船余前官ニテ江戸ニアリテ頗ル此議ニ預ル、只迅速ナラザルノ恐アリシニ、果シテ進ムコト遲々タリ――」
「東洋傳」には、この蒸汽船が警護の傳馬船よりもはるかにのろくて、人々困惑したといふ趣きが書いてあるが、また機械でうごく船をみて人々がおどろいた趣きも書いてある。とにかく昌造及び幸八による、日本人によつて創られた最初期の蒸汽船はのろいながらも日本の海を進水したのであつた。
しかし昌造は蒸汽船製作の實際を何によつて學んだのだらうか? 弘化元年來航のオランダ軍艦「パレムバン」以來、いくつか蒸汽船は見たにちがひないが、通詞ではあつても外國軍艦などの機關部點檢などはそんなに自由ではなかつた筈である。同じ弘化年間に幕府はオランダに註文して、小型の蒸汽機關を註文したことがあるが、その頃の昌造は稽古通詞の若輩であつた筈だから、自由な便宜も得られなかつたにちがひない。文書により、あるひは人知れず模型などつくつて、豫てからの苦心の結晶であらうが、のろいながらも日本人だけで創つた蒸汽船が進水したことは、この時代として特筆すべきことであらう。蒸汽船ではないが洋式船舶建造の最初の歴史としてのこる戸田村の「スクーネル船」は翌安政二年であつたことを思ふと、「長サ六間」の「砲二挺」を備へた船が「深サ五尺四寸」しかなかつたといふことは、それだけに却つて自然のやうで、昌造や幸八の苦心が想像されるやうである。
二
昌造のつくつた蒸汽船雛型が「砲二挺」を備へた一種の軍艦であつたことは、「海防嚴守」のたてまへから、土佐藩の註文であつたと謂はれるが、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐて興味ふかい。安政二年江戸から歸國後、直ちに永井、勝らの海軍傳習所の通譯係を任命されたのも、時代の波が命ずるところであつたらう。同僚の森山榮之助は改め多吉郎となつて外國通辯方頭取となり、同僚堀達之助は蕃書取調所教授となつた。昌造もまたこのままでゆけば、いちはやく何らか幕府的に表だつた役柄となつたのであらう。ところが彼は同じ二年に幕府に罪を問はれて「入牢」してしまつたのである。
「この年氏は長崎へ歸りしが、時の長崎奉行水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申付けた。乃ち氏は牢獄の人となつた。その理由は、氏が江戸に滯在中、天文臺の諸役人より依頼を受けて、天文に關する蘭書の購入方を引き請けてゐたのが原因である」と「印刷文明史」は書いてゐる。
三谷氏の「本木、平野詳傳」を除けば、福地源一郎の「本木傳」も「世界印刷通史日本篇」も、その他多くの本木傳が、彼の入牢説を支持してゐる。しかもその入牢期間は、一致して安政二年から安政五年十一月までといふ長期である。これは昌造の生涯にとつてほんの「躓きの石」くらゐではないだらう。前にも述べたやうに、通詞に對する罰則は一般にきびしくはあつたが、しかし「印刷文明史」のいふところを信じても、單に蘭書購入方取次といふだけではあまりに過重ではないかといふ氣がする。
「天文臺の諸役人」は幕府の外國關係の役所である。しかも安政二年には蘭書の輸入が間にあはなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくつて「日本製洋書」をこしらへた程である。そして昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」當時の次席應接係で、昌造はその配下であつた。昌造の養父昌左衞門は通詞目付で現存してゐて、假に多少の私情がものをいふとするならば相當の力もあつた筈である。しかも昌造は「長崎談判」以來、長崎通詞中功勞のあつた人間である。嘉永の初期とちがつて尠くとも表面的には緩和されてゐた筈の「蘭書購入取次」くらゐが、何故にそれ程の重罪に問はれなければならなかつたらうかといふ氣がする。
「本木傳」の多くが彼の入牢を「ほんの躓き」とする傾向をおびてゐる。福地源一郎は「同年本木昌造先生故ありて入牢せられぬ。その故詳ならず、人の傳ふる所に依れ
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