へねばならず、「夷情察し難」いものだつたから、苦心も並々ではない。それで「――當今の場に至りては亞墨利加人へ通商之試御許容、其後魯西亞人其外英吉利、佛蘭察等共同樣之御答に無之ては、迚も談判は相整申間敷、何共殘念至極に奉存候得共、御武備御整無之上は恐れながら――」とも、この人々は書いたのである。それは正月二十七日付であつて出先から送つたものだが、前記のやうに二月四、五、六日の評議で、「通信通商を許さず」と決定。主席林大學頭をはじめ應接係たちは、己れの意見を撤囘し決心のほぞをきめたのであらう。しかし「夷情の察し難」さはかはりなく、「短氣強暴」で「仁義忠孝之倫理」をわきまへない「墨夷」どもは「廿日の程には百隻の大艦」を江戸灣におしならべるかも知れなかつた。林は井戸對馬守と連名で、二月十日の初會見の前夜、九日付の江戸奉行宛の書翰にその苦衷を愬へた。「――魯西亞人――再渡之節は應接致し方餘程六ヶ敷可相成と、榮之助抔も殊之外心配罷在候。月末迄には筒井肥前守、川路左衞門尉も歸都可被致候間――引續き兩人にて取扱候樣宜敷被仰渡候樣、前以御申上置可被下候、拙者共――明日は初面會之儀、扨々心配而已に御座候、此節之胸中は都下にて何程深く御推察被下候とも、其上幾層倍に可有之哉と奉存候――」
文中の「榮之助」は大通詞森山榮之助で、彼は「長崎談判」が終るや、長崎から江戸まで早駕籠をもつて參着、二月一日付で神奈川へ差遣されたのであるが、この林、井戸の書翰にみても、ロシヤとの振合で「榮之助抔も殊之外心配」したといふからには、齊昭の「通信通商を許さず」の方針は決定しても、やはり大勢はある程度の讓歩を事前に覺悟してゐたものだらうか。
二月十日は周知のごとく歴史的な日米會見日である。この日第一の議題はアメリカ捕鯨船その他漂民の取扱の緩和方であつて、雙方「人命を重んずる」建前に異議はなかつた。「通商」の申出には「如何にも交易之儀は有無を通し候事故、國益にも可相成候得共、元來日本國は自國之産物にて自ら足り候て、外國之品物無之候共、少しも事缺候儀は無之候――」と拒絶したが、漂民の取扱を改善し、缺乏品を定められた港で賣り與へるといふことを正式に約定すること自體が、新らしい大事實であつた。從來も長崎港では漂民、漂船に缺乏品を與へたことは澤山例があるけれど、それは天保十三年の「異國船打拂改正令」にもいふごとく「御憐愍」であつたし、一方的のものだつたからである。ペルリは最後に「米清修好條約文」を參考のためにと手交して「――今出す所の案書を熟覽あらば、再三に詞盡すにも及ばず、今兩國にて交り會し、互に心中を相知り、和親之條約せん。もし此度請ひ望む所を許容なからんには、某決して國に歸らず、江戸への貢獻物もいかに取はからふべき方なければ、何時迄も此海上に滯留して左右を待つべし」と結んで會見は終つた。
二月十三日には書面を以て「――我國命之趣は廣大之意に有之、就ては貴國政府時勢を辨へ、私志願之通、治穩和親之談判を遂げ、兩國人民滿足之取極相立候儀、猶豫無之樣――」と強調して長崎港以外に、箱館、琉球にも港を開けと主張し、二月二十五日の會見では下田及び箱館開港の豫約が出來、三月三日の會見によつて、遂に「神奈川條約」が成立した。「日本と合衆國とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所人柄の差別無之事」にはじまつて、下田は條約批准後即時にも開港し、箱館は翌年三月から開港「亞米利加船薪水食糧石炭缺乏の品を、日本にて調候丈は給候爲め、渡來之儀差免し候云々」の文句は周知のごとくである。これはまさしく破天荒のことであつて、たとへば第五條のうちにいふ「――長崎に於て、唐和蘭人同樣、閉籠め、窮屈の取扱無之、下田港内の小島周り凡そ七里の内は、勝手に徘徊いたし――」などは、つい數ヶ月前ロシヤ使節の軍艦が半年餘を長崎沖に碇泊しても、和蘭使節の軍艦「パレムバン」が五ヶ月を海上に滯泊しても、奉行所における會見以外、一歩も上陸を許さなかつた過去にみて、おどろくべきことだつた。福地源一郎が、「幕府衰亡論」のうちで、このときを指して「開國の根本決す」と云つたのも當然であらう。つまり、「通信通商を許さ」なくても、「渡來之儀差免し」て、「日本にて調候丈は給候」とあれば、もはやそれだけで、「通商」にちかいものだつたからである。
ペルリの蒸汽軍艦は四月十八日に江戸灣小柴沖から下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航、下檢分旁々二十五日を碇泊。五月十三日にこれも下檢分のため箱館へ行つた。その間雙方の贈物も取り交されて、このときアメリカが贈つたものに小型の蒸汽機關車、ホヰツツル式大砲等があつたことは有名である。しかしこのアメリカ應接のことが、最初の危機を孕んだ險しい雲行にも似ず、案外無事に終つたことは何に原因してゐるだらうか? 多くの歴史書が傳へるやうに、當時幕府の「御武備御手薄之故」彼の砲身の長い大砲と、煙を吐いてはしる黒船に、ある程度は氣壓されたと殘念ながら認めねばなるまい。たとひ水戸齊昭でなくとも、當の林大學でさへ「殘念至極に候得共」であつて、幕府自體尠くとも進んでやる氣はなかつたのである。云ひ換へればペルリの成功、共和黨時代に遣日使節兼東印度艦隊司令長官に任命されたペルリが、民主黨が代つて共和黨時代の對日方針を訂正しても、飽迄共和黨時代の方針で押し切つた成功であらう。
しかしまた當時の日本の政治家たちが、單にペルリの恫喝に屈したとのみ考へることは出來ない氣がする。幕閣の多くが武備手薄を楯にとつて「通商やむなし」といつた意見の表現の仕方にも、いろいろの角度があつたのではないか? 弘化元年和蘭の「パレムバン」が來たときに、幕府は手きびしく追ひ返したが、そのとき水野越前は將軍の御前會議で「――慶長、元和の規模に復り、内は士氣を鼓舞し、外は進んでこれを取らん」と叫んだやうに、それから九年後の嘉永六年には、ゴンチヤロフの「日本渡航記」にもみるやうに「あのときは幕府の老中で贊成するものが二人だけだつたが、いまは反對するものが二人だけになつた」といふのにみても、表だつた記録にはみえなくても、鎖國に對する反對空氣は、甚だ複雜微妙ながら、相當つよく生れてゐたか知れぬと察せられる。
その開國進取にもいろいろあつたらう。當時の困憊した經濟事情からただ利をもとめるやうなものもあつたらうし、齊昭が慨いたやうに士氣墮弱から安きにつく輩もあつたか知れぬ。それと同時に、深夜アメリカ軍艦を訪れ、祕密渡航を企て、捕はれた吉田寅次郎らの如き、尠くとも「進取」があつたのである。國法を犯しても宇内の知識をきはめ、もつて皇國の安泰をはからんとするやうな「開國進取」である。「開國」の文字も、安政末期以後の十餘年間は、複雜多岐な政治性を帶びてきて一概に云ひ難いが、この頃まではまだまだ素朴で、皇國の安泰と、武器のみに限らず文明をきはめて我物とする意慾とが、なだらかに流れてゐたと思はるる。ロシヤ使節の蒸汽軍艦に招待された日本人たちが、いかに知識慾に燃え、進取性に富んでゐるかについて、ゴンチヤロフは驚異をもつてそれを書いたが、ペルリの「日本遠征記」もそれを書いた。「――下田でも箱館でも印刷所を見なかつたが、書物は店頭で見受けられた。――人民が一般に讀み方を教へられてゐて、書物を得ることに熱心だからである。アメリカ人に接觸した日本の上流階級は、自國のことをよく知つてゐるばかりでなく、すこしは他の國々の地理、物質的進歩及び當代の歴史についても知つてゐた。――彼等の孤立した位置を考慮にいれると、その質問はまつたく注目すべき知識を有することを明らかにした。――鐵道や電信、銀版寫眞、ペークザン式大砲、汽船についても心得顏に語ることが出來たのである」
これは主として蘭書仕込みの、「蘭學事始」以來百餘年に亙る澤山の學者の辛苦が育んだものであらう。そして鎖國のうちにあつても、進取の氣象を失はず、宇内の知識をきはめて日本の安泰を護らんとする氣象こそが、一面「神奈川條約」を自主的に成功せしめたものであつて、決してペルリの武威に屈したとのみは考へられない理由の一つである。
二
さて、わが昌造はそのときどういふ風にはたらいたであらう? 殘念ながら私の探しもとめた資料のうちでは、まことに僅かである。一は三月三日付の條約主文の飜譯文、二は五月二十五日付の約束の日本品授受についてペルリ側よりの抗議文の飜譯文のそれぞれに、前者は堀達之助と、後者は森山榮之助と共に署名捺印してゐること。他の一つは七月二十九日付飜譯のペルリの通譯官ポートマンより森山榮之助へ宛てた私的書翰のうちに昌造について觸れてある文章であつて、現在の私の力ではそれ以上を知ることが出來ない。
昌造が長崎より神奈川の横濱村に參着したのは、「長崎談判」が終つて御用濟となつた正月五日から、神奈川條約文の飜譯をした三月三日の間であることはたしかであるが、「明治維新史料第二篇卷ノ三」に、二月一日付の「村垣公務日記」として「一、長崎通詞森山榮之助、昨夕着、今日、神奈川へ被遣候」とあるから、たぶんそれと一行したか、その前後であつたと考へることが出來る。それからいつごろまで横濱村に滯在したか? 前記五月二十五日付の飜譯文があるので、恐らくペルリ一行が箱館から下田へ歸つて、琉球那覇港へむかつた六月二十八日頃までではなからうか? 七月の初旬には「吉田東洋傳」の寺崎志齋[#「寺崎志齋」はママ]日記にみえるごとく、江戸築地の土佐侯造船場にゐたことが明らかだからである。
ついでに昌造の安政二年までの動靜をいふと、元年九月には安治川尻にあらはれた魯艦について通辯をし、魯艦の下田※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航と共に同年十月以來、翌年三月日露修好條約成立まで伊豆地に居り、同年夏以來、幕府の海軍傳習所が長崎に出來るや、傳習係通譯となつてゐる。安治川尻での魯艦についての通辯のことは、いま自分では資料をもたぬので、三谷氏の「――昌造先生も安政元年には大阪に於て魯國と談判するに際しては五代友厚氏なり、或は桂小五郎氏等の通辯をされた」といふ「本木、平野詳傳」にしばらく據つておく。また海軍傳習係通譯のことは、「幕府時代と長崎」(長崎市役所編)のうちに「――傳習係通譯岩瀬彌七郎、本木昌造等十四人云々」とあり、勝麟太郎の「海軍歴史」にも彼の名が誌してあるので疑ふ餘地はなからう。つまりこの時期から彼の生涯はそれこそ「東奔西走」であつたわけだ。
ペルリの來航當時、長崎通詞は堀達之助、立石得十郎らの先任出役中のほか、前記榮之助、志筑辰一郎、名村五八郎らがゐた。主席通詞は大通詞過人の森山榮之助であつて、飜譯文に署名した順序からいふと、次席通詞の堀達之助よりも昌造の方が上位である。堀は當時小通詞で、昌造は小通詞過人であつた。しかしどういふ譯か三番通詞も「得十郎」となつてをり、日本側の記録をさがしても、ペルリ側の記録にみても、昌造はほとんど表だつて出て來ない。ペルリの「日本遠征記」もゴンチヤロフの「日本渡航記」と同樣、日本側の記録にくらべて、通詞らにある親しみをもつて書いてをり、「榮之助」は勿論、「五八郎」も「得十郎」も、「達之助」も、「林大學」や「井戸對馬守」のそれと同樣に、それぞれ見事な肖像を掲げてゐる。
それぞれ大小を前半にして、やや袋じみた袴を穿き、緒の太い草履を穿いてゐる。主席通譯の榮之助は、四十未滿のはたらき盛り、禿げあがつた月代の廣さと、癖ありげな太い鼻柱、左の肩をおとして口許に薄笑ひを泛べてゐるところ、いかにも自信ありげで、ゴンチヤロフが描寫した「彼は川路つきの通詞であつたから、交渉のうちでも最も重要な部分を通譯してゐた。彼は思ひ上つて他の全權達の話は殆んど聞いてもゐなかつた。――彼は放蕩も嫌ひな方ではなかつた。――ある時は、中村の前でシヤンパンを四杯飮んで、ひどく醉つ拂つて、人の云ふことを通譯しないで、自分勝手に話をきめようとする――」といふやうな風貌が、同時にゴンチヤロフが他の個所で、その果敢な進取性と才能とに惚
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