、進取果敢な性格の一面も描き、一ばん下ツ端の小通詞助楢林榮七郎についても、ヨーロツパ文化を自分の眼で見たいと希望するこの青年の激しい性格をも描寫してゐる。それでわが昌造はゴンチヤロフの眼にどう映つたらう? と私は注意するのであるが、不思議と昌造だけはその特徴が描かれてゐない。
 昌造は「改め舟」に乘つてロシヤ人たちを迎へにいつたり、「番舟」に乘つて食糧を搬んだり、「御檢視」に從つて些細な事務的折衝の通辯をしたり、通辯だから「默々」でもないが、せつせと働いてゐることが書いてある。プーチヤチン祕書のゴンチヤロフは、そんなことで五囘ほども「昌造」といふ名に觸れながら、何者にも特徴をめつけたがるこの作家は、たうとう昌造の性格について觸れなかつたのである。
 ところが「――古文書幕末外交關係書卷ノ七」にロシヤ側からの贈物目録があつて、筒井、川路その他幕府役人はもちろん、通詞にも及んでゐる。通詞目付本木昌左衞門を筆頭に、西吉兵衞及び森山榮之助へ金時計その他、志筑龍太、本木昌造、楢林量一郎、同榮七郎等へ硝子鏡その他を贈つてゐるが、それから數日を經て本木昌造、楢林榮七郎へ「書籍一册づつ」といふのがあり、更に數日を經て、同じく昌造、榮七郎へ「ロシヤ文字五枚づつ」といふのがある。
 その「書籍」が何であつたか、私は知ることが出來ないが、「ロシヤ文字五枚」といふのも、その書籍を解讀するための手引か或は單語表みたいなものではないかと想像するくらゐで、これもわからない。しかし昌造と榮七郎へだけ贈られた「書籍」と「ロシヤ文字」は、何かしら贈る側ばかりではない、贈られる側からの意志も動いてゐる氣がする。
 外國から入つてくる物のうちで書物は一等きびしかつた。「日本渡航記」も書いてゐる。「あるとき――大井三郎助が吉兵衞をつれてやつてきた。――提督(プーチヤチン)も私も本を贈ると云つたが――斷然辭退した。海防係の一人で、幕府直參の三郎助でさへそれ程姑息で、それ程怖れてゐたのである。ロシヤ側からの贈物は、勿論長崎奉行の承認を經てから受取つたものであるが、それがどういふ名義であつたとしても、そこには記録にものこらない昌造らの意志や努力があつたのではなからうか?
 ゴンチヤロフが注意を惹かれながら、しかも簡單には觸れなかつた昌造の特徴や性格について、私はどつか内輪な、表情の尠い、しかも、底をついてゐるやうな一克さをひそめてゐる、當時の科學者的な、一日本青年を想像するのである。
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        開港をめぐつて


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      一

 昭和十七年の夏の終り頃には、私は麻布二之橋のちかくにあるS子爵邸のS文庫に、書物をみせてもらふために通つてゐた。夕刻ちかくになると書物を棚にもどして、子爵邸前のだらだら坂をおりてくるが、どうかしたときは二之橋の欄干につかまつて溝《どぶ》ツ川のくろい水面をみつめながら、ボンヤリ考へこむことがあつた。
 自分は活字の歴史をさがしてゐるのに、何で「嘉永の黒船」や「安政の開港」などを追つかけまはしてゐるんだらう?
 一種の錯覺に似た、氣弱な不安が起るのであつた。たとへばS文庫のうすくらい片隅の机で、私は借りた書物のうちから、はじめは「昌造」の名ばかりさがしてゐる。幕府時代の公文書とおぼしきものから、年時や事件を繰りあはせてさがしてゆく。ちかごろでは「本木」とか「通詞」とか「活字板」とかいふやうな文字は、どんなに不用意に頁を繰つてゐても、むかふから私の眼のなかにとびこんでくるやうになつてゐたが、またそれと同時に、私の興味は活字などとは凡そ縁のないやうな、昌造とさへ直接には關係のない、いろんな他の文章にも魅かれていつて涯しがないやうであつた。
 私は日本の近代活字の誕生が知りたいのであつた。それで私はその代表的人物本木の生涯や仕事を知りたいのであつた。その昌造は通詞といふ職業で、「黒船」にも「開港」にも關係してゐた。從つて私はプーチヤチンもペルリも、水戸齊昭も川路左衞門尉も、その他いろんなものをおつかけてゆくのであるが、しかもその間を容易に斷ち切ることが出來ないでゐる。私は脱線してゐるのであらうか? 木に據つて魚をもとめてゐるのであらうか?
 私は三谷氏の「本木、平野詳傳」をはじめ三四の本木昌造傳をおもひうかべてみる。そこでもやはり「安政の開港」や「嘉永の黒船」が書いてあつたが、簡單にいへばそれらの事蹟も昌造の偉らさを讚へる證據としてだけ擧げられてあつた。そして日本の活字はその個人昌造の偉らさによつて偶然に産みだされたものとなつてゐる。だから昌造を日本活字の元祖とする場合は、「黒船」や「開港」の記録のうちにも、彼個人の偉らさを證據だてるやうな文章のみを發見すればよいのであつた。木村嘉平を元祖とする人々の場合は、嘉平の苦心談を探しだせばよいのであつた。
 しかし私の主人公は、じつは昌造や嘉平やといふ個人を超えて「活字」といふ一つの文明器具、一物質の誕生にあつた。これは昌造や嘉平の偉らさと決して無關係ではないが、はるかに限界を超えてゐた。たとへば嘉平の苦心談は、その註文主島津齊彬の意志がなくては生れないし、齊彬のさういふ前代未聞の註文は、當時の對内外關係をべつにしてはまつたく判斷出來ないであらう。だからいくら昌造の偉らさを讚へたところで、嘉平の苦心を探しあつめたところで、それだけでは日本の活字は完全に生きることが出來ないであらう。
「いや、いや」
 溝《どぶ》ツ川のくろい水面に、フツリフツリと浮いてでるメタン瓦斯の泡をみつめながら、私は思ひかへすのであつた。これは私の迷ひなんだ。よし私のやうな素人が、當時の複雜な對外事情に一年や二年首をつつこんだところで、その理解し得るところは高が知れてゐたにしても、やはり明治維新を産み出した當時の日本と日本人の力に全力をあげてすすまねば、日本の活字に血は通はぬのだと考へるのであつた。
 さて、プーチヤチンの黒船が長崎を退帆すると、わづか九日めには、ペルリの黒船がこんどは七隻で江戸灣に入つてきた。舞臺はたちまち長崎から江戸へと擴がつたのであるが、昌造にとつてこの「安政の開港」は、生涯の大事だつたと思はれる。わが日本にとつても開闢以來の大外交であつたが、昌造にとつても、まだ固い蕾が思ひきり雨をあびたやうなものである。長崎に住んで、外國人と接するなどめづらしくはないが、ヨーロツパを相手に國と國との折衝といふ大舞臺は、通詞職としても前代未聞のことであつた。
 これを年次的に述べると、ロシヤ使節一行の軍艦「パルラダ」以下三隻が、機微な交渉のうちに再渡を約して長崎港から退帆したのが安政元年の正月五日。アメリカの使節ペルリ一行が、江戸灣内に再渡來したのが同じ正月の十四日。そして強引に修好條約を締結して下田港を去つたのが同じ六月の二十八日。同じ九月の十八日にはまたロシヤ使節の船が大阪安治川尻にあらはれて、幕府の諭書によつて十月下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航。以來翌年三月までかかつてペルリと同じ日露修好條約を締結して歸國。すると同じ安政二年の七月にはイギリス軍艦が長崎へ入港、當時はクリミヤ戰爭の最中で、歸國途次のロシヤ使節一行中の一部を拿捕、兵員百數十名を捕虜として積みこんだまま、おやつをもらひおくれた子供のやうに慌てて條約をせまり、それを得て同じ月に去つた。以來幕府としては既定の方針を佛蘭西、和蘭にも與へたが、それらの批准はもちろん數ヶ年を要した。しかし「安政の開港」といへば、幾多の歴史書が示すとほり、最も重要點を嘉永六年から安政二年の間におく。昌造が通詞としての活動はまさにこの期間を終始してゐて、年齡でいふと三十歳から三十二歳までである。
 ペルリ二度めの來航も、どんなに幕府をおどろかしたかは、澤山の書物にみえてゐて、詳述する必要はあるまい。前年七月浦賀にきて、アメリカ漂民の取扱及び日米國交と通商に關する大統領親翰をつきつけて退帆して以來、再渡は豫期されたが、あまりに早過ぎたのである。ペルリは、前年七月彼の艦隊が留守中に、ロシヤ使節が上海にきて、待ちかねて長崎へ行つたといふ情報を、根據地の上海へ戻つてから知り、ロシヤに先鞭をつけられるのを怖れ、豫定を早めて再渡來したのだといふやうな事情を、幕閣でも知るわけがなかつた。
 三隻の蒸汽軍艦と四隻の帆前軍艦とは、前年碇泊地の浦賀を通りぬけ、無數の警衞船の制止もきかず、横濱近くの小柴沖まで進入してきたのである。當時幕閣では「ぶらかし案」以來、まだ確乎たるものがなかつたし、「二月四日、兩度老中へ逢候處――伊賀守(松平)專ら和議を唱え候、林大學、井戸對馬にも逢候處、兩人共墨夷を畏るる事虎のごとく、奮發の樣子毫髮も無之、夜五ツ時まで營中に居候得共、廟議少しも振ひ不申、いたづらに切齒するのみ」と、水戸齊昭の手記にみえるが如き空氣であつた。伊賀守は三奉行の一人、林、井戸の兩者は既にペルリ應接係を任命されてゐる當時者である。三ヶ月前、ロシヤ使節に對して、筒井、川路の應接係を長崎に差遣するときも、硬派の中心齊昭の頑張りで「通商拒絶」を決意したが、そのときはまだ「以夷制夷論」などいふものがあつた。しかし三ヶ月後には「通商やむなし」といふ風にもはや正面を切つた論が強かつたやうである。「ぶらかし」とか「御武備御手薄之故」とか、他動的なものではあつたが、「通商やむなし論」は多數だつたらしい。アメリカ應接係の一人松平美作守などは、なかなかハイカラで、第一囘會見のときアメリカ海軍軍樂隊の奏する洋樂に、手足をジツとさせてゐることが出來なかつたと、ペルリの「日本遠征記」には記録してある。從つて、副將軍齊昭は多勢に無勢、老中筆頭伊勢守はいづれとも決しかねて終始沈默をまもるし、「齊昭手記」は「二月五日、昨日廟議之模樣少しも不振、去月下旬より昨日迄之模樣――只々和議を主とし――老中はじめ總がかりにて我等を説つけ、是非和議へ同心いたし候樣にとの事にて、不堪憤悶、此まま便々登城いたし候ては恐入候故、今日は風邪氣と申立、登城延引」と書いたほどであつた。
 もちろん、家慶將軍歿後は、水戸家は幕閣中の最高決定者であるし、「登城延引」の強硬態度は伊勢守をも動かしたであらうし、通信通商の儀は一切拒絶と漸く決まつた。「二月六日、今日五ツ半刻、供揃にて太公登城――通信通商之儀は決して御許容無之と、閣老決議之段申上、林、井戸へも其旨達しに相成候由、太公御快然可知」と齊昭の家來藤田は「東湖日記」に書いた。當時の江戸警備の物々しかつたことも周知のとほり。正月以來各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲から佃島を、加賀藩は芝口を――といつたぐあひに萬一に備へた。幕閣では異變の際は江戸市民へ早盤木をもつて知らせるなど布令を出して、齊昭より「――墨夷及狼藉候迚も、何も御府内町人等へ爲知候には及不申、武家さへ心得候へばよろしき儀――その外は却て火元盜賊の用心、やはり其宅々を守り候方可然――」と叱られた程である。
 しかし二月七日に浦賀奉行組頭黒川嘉兵衞は、アメリカ軍艦に參謀アーダムスを訪れて、應接所を横濱に設けたからと申入れた際、「承知仕候――乍序御談話に及候、此節相願候一件御承引不被下候はば、不得止直に戰爭を可致用意に候、若し戰爭に相成候得ば、近海に軍艦五十隻は留め有之、尚又カリホルニヤにも五十隻用意致し置候間、早速申し遣し候得ば、廿日の程には百隻の大艦相集り候云々」とおどかされたのであつた。まつたく不埓至極であるが、このおどかしは黒川嘉兵衞がたとひ勇武の人間ではあつても、まつたくヨーロツパ文明にくらいとすれば、何程にかは利きめあることだつたらう。
「――夷情察し難く、日夜苦心仕候事に御座候――阿蘭陀人、魯西亞人抔之樣に氣永には無之、至つて短氣強暴之性質故、義理を以て説破候ても、元より仁義忠孝之倫理は心得不申候――」と、アメリカ應接係たちも老中宛の書翰に書いた。やつと長崎を退帆させたばかりのロシヤへの振合も考
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