アラスカからオホツクへ到着し、そこから千島を南下してくる例だつたが、プーチヤチンがはじめて、印度洋から東支那海を通つてきたわけで、日本とロシヤ間の航路が三分の一もちぢめられてゐることも、當時の日本にとつては注意すべきことであつたらう。
しかし歴史もなかなか忙しい。プーチヤチンは、米露雙方政府の諒解に基いて、ペルリの香港歸着を待つて對日共同歩調をとる筈であつたが、そのとき彼等遣日使節が「十ヶ月」の航海中に、本國ではロシヤ對英、佛、土間のクリミヤ戰爭が勃發してゐた。しかも支那海一帶は英佛艦隊の勢力範圍である。香港でそのニユースを知つたプーチヤチンはペルリの歸來を待たずに、長崎へむかつたわけであつた。
「――長崎灣の入口の目標になつてゐる野母崎が見えだした。皆は甲板に集つて、鮮かな日光をあびた緑の海岸に見とれてゐた。――艦の横の水面を流れてゆく、あの五色の風車を飾りたてた玩具の舟は何だらう?
「あれは――宗教上の儀式だよ」と誰かが云つた。
「いや」と一人が横槍を入れた「これは單なる迷信上の習慣さ」
「占ひだよ」――
「いや失禮だが、ケムペルの本には……」と誰やら議論をはじめた。――
こんな風にしてロシヤの黒船は、七月の十六日、ちやうど盂蘭盆の精靈舟がただよつてゐる長崎港に入つてきたのであるが、ここにいふケムペルとは、ドイツ人エンゲベルト・ケムペルのことで、元祿二年から四年まで出島の商館長だつた人物、歐洲では日本研究家として知られてゐるが、彼らは「謎の國」についていろいろと豫備知識を養つてゐたことがわかる。それにくらべて昌造らの位置は洋書さへ嚴禁であつた。しかも歴史のめぐりあはせは面白い。昌造と「オブロモフ」の著者ゴンチヤロフとは親しく顏を合せたのである。
「――元日の晩、艦ではもう皆が眠つてしまつてから、全權の(日本の)使として二人の役人と二人の二流通譯、昌造と龍太をつれてやつて來て、二つの質問に對する囘答をもつて來た。ポシエツト君は寢てゐた。私は甲板を歩いてゐて、彼らと接見した――」
五
長崎港に入つたロシヤの軍艦は、七月の中旬から、翌年安政元年正月初旬まで約半歳を碇泊してゐた。幕府のロシヤ應接係筒井肥前守、川路左衞門尉などの長崎到着が六年の十一月二十七日で、正式の日露會談開始が十二月十五日からであつた。そしてこのときの通詞主席は大通詞西吉兵衞、次席大通詞過人森山榮之助兩人で、以下大通詞志筑龍太、小通詞過人本木昌造、小通詞楢林量一郎、小通詞助楢林榮七郎等が活動した。
この「長崎談判」がロシヤ側から云はせれば不調に終つたことは周知のとほりである。通商は拒絶、北邊の國境問題も未解決のままで、プーチヤチンは再渡を約して去つた。これだけでみると、第三囘使節も前二囘の使節と同じ結果のやうだが、このときはロシヤ側の贈物も受取られたし、日本側からも贈物をした。また他日オランダ以外と通商するやうのことがあれば、隣國の誼みとしてロシヤとも通商するといふ言質を與へられたから、レザノフの場合といくらかちがつてゐる。殊に雰圍氣的にいへば、前二囘にくらべてずゐぶん緩和したものであつたといふ。
外國の使節が長崎にきて、江戸の應接係がそこへ到着するのに半年ちかくもかかるのはいつもの例であるが、このときは江戸と長崎の間が遠いからばかりではなかつた。周知のやうに、このときも水戸齊昭の頑張りによつて「通商拒絶」といふ方針が決するまでは、「以夷制夷論」などが生れて評議は永びいたのである。「ぶらかし案」の變形みたいなもので、つまり傲慢なペルリに通商を許すよりは、スパンベルグ以來アメリカよりは氣心の知れてゐるロシヤにそれを與へて、もつてペルリに對抗しようといつた説である。齊昭はペルリの退帆が六月十二日、プーチヤチンの來航が七月十八日、これは墨夷と魯戎の間に默契があるにちがひないから、「以夷制夷論」など危險だと喝破して、それを打ち破つたから、漸く前記の方針が一決して、筒井、川路の江戸出發が十月下旬となつたのである。
筒井、川路の任務も大變であつた。レザノフのときまではまだ目付遠山金四郎が一人でやつてきて、諭書を讀みきかせればよかつたが、しかしいまは、蒸汽軍艦が二日で長崎から江戸までいつてしまふ。魯戎の氣心はペルリとちがつて、何といつてもピヨトル大帝以來の對日方針の傳統が生きてゐて、若干穩和と思はれるが、結局「六十斤砲を撫し」てゐる點に變りはない。しかも「通商拒絶」を納得させておきながら、彼らの軍艦を江戸へやらぬやうにしなければならない。筒井、川路の奮鬪がどれほど深刻だつたかは、川路自身の日記や、相手方のゴンチヤロフの「日本渡航記」がよく描寫してゐるところである。さきの江戸奉行で、幕府の役人中では新知識といはれ、水野越前が自ら求めて友人にえらんだといふ筒井や、齊昭でさへ一目おいたといふ川路らが、その任に選まれたなども、困難だつた當時の事情を語るものであらう。
「日本渡航記」はヨーロツパ人の優越感をもつて書いてゐる。「――日本人は軍艦に向つてはどうすることも出來ない。彼等は小舟より他に何も持たないからだ。この小舟には、支那の戎克と同樣に蓆の帆や、極く稀に麻の帆がついてゐて、そのうへに艫部が開け放しになつてゐるので、海岸だけしか走れない。ケンペルは自分の居た頃、將軍が外國に行ける船舶の建造を禁止した――と云つてゐる。」「ニツポン、ヨウジンセヨ!」
ところが、そのとき長崎にきたプーチヤチンの「デイヤナ」も、江戸にきた「ペルリの黒船」も、せいぜい四百噸ないし五百噸以下の蒸汽船だつたと、今日明らかにされてゐる。しかも當時の新知識といはれた川路でさへが、その翌年プーチヤチンが下田へきて、例の海嘯で破損した「デイヤナ」が宮島沖で沈沒したとき、「城をうかべたやうな黒船が」と日記に書いてゐる。聖明を蔽ひ奉り、國を鎖して、船といふ船が日本の海岸だけしか這ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]れないやうにした封建政治の矛盾はかういふ風にあらはれてゐた。しかもそれはけつして船ばかりではなかつたらう。
とにかく當時の心ある日本人は、どんなに急激に眼をさましても追つつかぬやうな氣持であつたらう。殊に當時の制度では、海外知識の觸角であつた長崎通詞など、すぐれた人物は一樣にそんな氣持だつたと想像できる。大通詞西吉兵衞は西家十一世で、さきに開國勸告使節の「パレムバン」が來たときオランダ國王の親翰を江戸へ護送した責任者の一人、そして高島秋帆が師事して砲術を教はつた人である。大通詞過人森山榮之助はのち多吉郎と改めて幕府直參となり外國通辯方頭取となつた人で、前記したやうに川路のために英書を飜讀して北邊事情を明らかにしたが、彼の英語はアメリカ捕鯨船の漂民が崇福寺の牢屋敷にゐたのを日夜訪れて學んだものだといふ。しかも彼ら通詞が外交の舞臺でさへ扱はれた身分といふものはまことに低いものであつた。
「――全權は四人とも一列に並んだ。そして雙方禮を交した。全權の右手には兩名の長崎奉行が座に着き、左には江戸から來た高官とおぼしきものが更に四人ゐた。全權達の背後には、小姓が見事な太刀を捧げて坐つた。――全權達は話したいといふ合圖をした。すると忽ち、どこからともなく榮之助と吉兵衞が蛇のやうにするすると、全權の足下に兩方から這ひ寄つてきた。――」とゴンチヤロフはびつくりして書いてゐる。
しかしそんな封建政治の古い慣習のうちにも新らしい萠芽はあつたわけで、そのとき會見の第一日に、筒井肥前守のした挨拶はまことに堂々としてゐて、ロシヤ人をおどろかしてゐるが、これはのち萬延、文久頃からしばしば外國を訪れた日本使節のそれにも魁けて立派なものだつたにちがひない。「――老人が口を切つた。私達はじつとその目をみつめた。老人ははじめから私達を魅惑してしまつたのだ。――眼のふちや口のまはりは光線のやうな皺にかこまれ、眼にも聲にもあらゆる點に老人らしい、物の分つた、愛想のよい好々爺ぶりが輝いてゐた。實際生活の苦勞の賜物だ。この老人をみたら誰でも自分のお祖父さんにしたくなるだらう。この老人の態度には立派な教養を窺はせるものがあつた。――」と、流石に作家ゴンチヤロフは、一と眼で筒井肥前守を描寫してしまつた。
――「手前共は數百里の彼方から參りました。」と老全權は始終微笑をうかべて、懷しげに私達を見やつて云つた。「貴殿方は幾千里を越えておいでになつた。これまで一度もお目にかかつたことがなく、まことに遠々しい間柄であつたのに、今やかうしてお近づきになり、同じ室に坐つて、話をしたり、食事をしたり致してゐるのです。まことに不思議な、そして愉快なことではありませんか!」――。
「六十斤砲を撫し」てゐるロシヤ人たちが「――あの時雙方の共通の氣持を現はしたこの挨拶を、何とお禮の云ひやうもなく、有難く思つた。」と書いたのである。この立派な國際的な挨拶は、ゴンチヤロフの見事な筒井肥前守の描寫と共に、永遠に生きるであらう。
川路もまた立派であつた。聰明なこの日本人にロシヤ人たちはおどろいてゐる。「日本渡航記」の筆者も、シーボルトと同じく「日本人は支那人とちがふ!」と叫ばざるを得なかつたくらゐである。そしてこんな立派な日本人の努力が、三世紀にわたる鎖國の行詰りから救ひ、蒸汽軍艦を長崎で喰ひとめ、むげ[#「むげ」に傍点]には「六十斤砲」を發射させなかつたのであるが、ほかにも立派な、新らしい日本人がたくさんゐるのを、ロシヤ人作家はめざとくめつけだしてゐる。
「――私の注意を惹いたものがあつた。――私はその男の名を知らない。彼は從者だつたから御檢使と一緒には入らなかつた。――それは均齊のとれた丈の高い男で、上體を眞直ぐに起してゐた。艦内に入れないのできまりわるく思つてゐたか、それとも日本官吏たるの名譽以外に自ら恃むところがあつて、環境を理解してゐたのか、それは私に判らない。だがその男は見事な、さりげないポーズで、誇らかに甲板に立つてゐた。――その顏の表情にも、――あの愚鈍な自己滿足も、喜劇的な勿體ぶりも、底の知れた幼稚な陽氣さもなかつた。いや却つて、日本人たるの意識が、その足らざるところ、その求むるところの自覺が、雙眼にほの見えてゐるやうに思はれるのであつた。――」
私はこれを井上滿氏の譯から引いてゐるのであるが、このへんゴンチヤロフの敍述はきびしくまた微妙をつくしてゐる。沖にゐるロシヤ使節の船を訪れる御檢視といふのは長崎奉行の與力以下で、その從者といふからには至つて身分のかるい武士だつたにちがひないが、それが何者であつたかは、日本側の記録でも知るすべがない。とにかくこんな新らしいタイプの日本人が、たくさん名も無い人間のうちにゐたにちがひなく、私らはちやうどこの頃、ロシヤ船に乘りこんで宇内の知識をきはめんとて、若い吉田寅次郎が江戸から長崎へむかつてすたこらいそいでゐたのを思ひだすだらう。
そして當然通詞のうちにも新らしいタイプの日本人がゐたのであつた。ペルリの「日本遠征記」も一ばん自分たちに接觸の多い通詞をとほして日本人を判斷したやうに、ゴンチヤロフは、たとへば大通詞志筑龍太をもつとも古い型の「老廢化石した日本人の部類」と書き「吉兵衞はいくらか新鮮なところがある。彼は新らしきものに對する固陋な憎惡を持たない」が、しかし「彼は新らしきものを追及する氣力がない」と大通詞西吉兵衞について感じた。そしてこのロシヤの作家は森山、本木、楢林弟の三人に一ばん興味をもつて「――話の節々や――ヨーロツパ的なものを見るときに――榮之助、昌造、楢林弟などが、自己の位置を感知し、自覺し、憂鬱になり――」幕府役人たちの舊い理解に對して「――從順な、無言の反對派をなしてゐる」と書いた。
昌造らがこのときどういふ風に活動したか、日本の記録でさがしてみたが、なかなかめつからない。「川路日記」などでは、彼の懷刀であつた榮之助が少し書かれてゐるが、充分でもない。しかもまだ「二流」の昌造などは公的な記録にはまるで出てこない。「日本渡航記」は榮之助の才氣横溢で
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