れて描寫したやうな部分と、一緒にあらはれてゐる。「達之助」などもつと謹嚴で、羽織を着て、小姓のやうな稽古通詞の少年の肩に、手をおいて立つてゐるところ、總じて通詞の風彩は、そこらの二三百石取の武家くらゐには見える。
 事實、幕府外交に際して彼らのはたらきは二三百石取の比ではない。前記の主席全權林大學頭が「榮之助抔も殊の外心配罷在候」と、老中にも披露される公文書に書いたやうに、事、外國に關しては彼らの知識に俟つところ、けつして單なる「通辯」の範圍ではなかつた。雙方の記録にみても、例へば主席通詞の榮之助が單獨で、ペルリを旗艦「ポーハタン」に訪れて、條約上の下交渉などをやつてゐるし、ペルリ一行の上陸についても榮之助はじめ通詞らの指揮にでるところ甚だ多かつた。しかしこれらの通詞の實際のはたらきと、「日本遠征記」に掲げるところの彼らの風彩をみて、彼らの地位がさうであつたといふのでは毛頭ない。たとへば彼らの二三百石取の武家風も、行司が土俵では烏帽子をかぶるのに似たものだつた。その證據には主席通詞の榮之助でさへ、「神奈川條約」成立後の四月二十九日付、江戸奉行達で「和蘭大通詞過人森山榮之助勤方ノ件」として、「紅毛大通詞過人森山榮之助儀、在府中御扶持方拾人扶持被下、帶刀御免――」云々とあるにみても理解できよう。つまりこのたびの未曾有の大外交に當つて、最も功勞のあつた彼への褒賞として、江戸奉行配下にある間、拾人扶持を下され、帶刀御免だつたのである。また風采はとにかく、通詞らの地位について、ペルリ側でも不思議がつてゐる。それは二月二十八日、條約成立の見透しがついて、ペルリ側で林大學以下の諸委員を旗艦艦上に招待したとき、ペルリ側主腦部と幕府全權主腦部とはペルリの居室で會食したが、ペルリ側では勿論通譯官も同列の椅子についた。それで林の方でも釣合をとるためか、榮之助をよびいれて、別の小卓につかせたときのことである。「――日本の通譯榮之助は、上役の特別の贔負で、その室の傍卓につく特權を許された。こんな低い位置についても榮之助は心を動搖せしめず、又食慾を亂されないやうであつた」と「日本遠征記」は書いてゐる。しかしこれはペルリの見當ちがひで、榮之助とすれば奉行格、大目付格の人々と同室で食事をするといふことが大變な光榮であり、また長崎通詞の過去の歴史にみても前代未聞のことだつたのである。
 通詞は低い身分であつた。したがつて記録にも主體的にはあらはれない。大通詞榮之助でも、先に魯西亞應接係勘定奉行川路左衞門尉の懷刀であつたし、いまは幕府側全權林大學の相談相手であつても、公式な記録には、ごく些細な事務的折衝でゆく、浦賀奉行配下拾石五人扶持くらゐの同心にでも「――榮之助を召伴れ」といふ風になつてゐる。ここでは詳述を避けるが、前記した條約成立以前にペルリを旗艦に訪れて「腹さぐり」をやつた榮之助、同じく米人宣教師が持歸つた日本貨幣取戻しの一件、米艦に護送された漂民が役人をみて甲板で土下座してしまつたときの榮之助の處置、殊にペルリ側通譯官ポートマンとの間に、同じ通譯としての立場から相當重大なことまで折衝して、事態の圓滑な進行をはかつた榮之助はじめ通詞らの活動――。かういふことが公式記録にはわづかしかあらはれない矛盾があつた。たとへばペルリ側の記録「日本遠征記」には、林大學や井戸對馬と並んで、澤山の通詞が肖像入りで主體的に記録されてゐるのに比べると格段の差があつて、これを異國人の一番身近に接した親しみからだとばかりするは當らない。
 しかしそれにも拘らず、幕府外交の緊要さはもはや頂點に達しつつあつた。わづか三ヶ月の差であるが、たとへば榮之助だけにみても、「長崎談判」のときの彼の活動權限と「神奈川條約」のときのそれとは比較にならぬほど廣汎になつてゐる。理由の一つには後者では條約が成立したこと、長崎とちがつて横濱ではそれが未經驗であつたことなどもあるだらうが、決してそれだけではないにちがひない。新らしい原因は、何よりも從來のやうに幕府役人の誰かが下向してきて「諭書」を讀みあげるだけでは事態が收拾出來なくなつたこと。相手方の通譯官といふのが同時に外交官であつて、「長崎通詞」とは比較にならぬ權限とはたらきを備へてゐることなどにも刺戟されたであらう。「長崎談判」以來の功勞で、在府中だけ帶刀御免をされた榮之助は、つづいて起つた同年末からの「日露修好條約」には、名を多吉郎と改め普譜役に[#「普譜役に」はママ]任用され、のち外國通辯方頭取となつたし、このときの小通詞堀達之助も士分に取立てられ、蕃書調所教授となつた。
 これらは「安政の開港」をめぐつて、通詞らの職務がどんなに重要になつてきたかを示す證據であらう。しかも彼ら通詞を通詞としての職務からだけでなしに、外國語に通じ、外國文明に多少なり通じてゐる「人間」として考へるときは、その範圍は更に廣くなる。榮之助改め多吉郎の「外國通辯方頭取」は、一種の外交官であるだらうが、堀達之助の「蕃書調所教授」となると、もつと學問的になつてくるやうに、のちの昌造の「長崎製鐵所頭取」となると、さらに範圍が廣くなる。つまり通詞といふ職に統一されて、同じ蘭語や、それぞれ多少の英、佛の外國語に通じてはゐたが、この開闢以來のヨーロツパとの國交開始に當つては、それぞれの人間的特徴をもつてはたらいただらうし、その特徴は分化する運命にあつた。しかも殘念ながら私はペルリ來航當時の昌造のはたらきぶりを殆んど知ることが出來ないのである。
 しかしたつた一つ、私としては思ひがけないめつけものがあつた。「大日本古文書幕末外交關係書卷七」に、七月二十九日付の飜譯による、ペルリの通譯官ポートマンから森山榮之助宛の書翰があつて、その文面中、昌造がでてくるのであるが、それは「米通譯官ポートマン書翰、和蘭大通詞森山榮之助へ歸國につき挨拶の件」とあつて、「榮之助君え」と親しく書き出してある。
「私共今晝後、八ツ半時頃此所へ着船致し、サウタンポン船持越候石炭積請、可相成丈急き當所を出帆いたし、カープホーレルを※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、ネウヨルクえ罷歸申候。其節ホノリリユ、サンフランシスコ、パナマ、カウヲ、フアルハレリ、リヲゼナイロに立寄申候。
 其許樣え、お目に掛り候儀不相叶、殘念に候得共、兼て御約諾致し置候通、追々御安否御書送被下候はば大悦に存候、猶私よりも評判記且御入用にも候はば右樣之品差送可申、失念仕間敷候。此度は聊之状紙差送申候間、私え御状之節右紙え御認被下度希上候、石状紙之内、本木昌造樣へも御遣し被下度、且御同人之御動靜直書にて承知致し度、其旨御傳聲希上候――爰に筆留致し候。
 ――大切之御用御勤被成候褒美として、大才之御許に相應之御昇進有之候樣、相祈申候――。
[#地から4字上げ]其許好友の    ポートマン
 尚々
 私え御出状之節宛名左之通
[#ここから4字下げ]
ア・エル・セ・ポートマン・エスクエ、ネウヨルク・ユナイテツト・ステーツ・ヲフ・ヱメルケ・ヘルヲーフルレントメールフエ・マルセールス。
[#ここから1字下げ]
右書状は下田え渡來之アメリカ船、又は長崎之ヲランダ船へ御托與被下度、又はヱゲレス船、フランス船へ御遣し被下候ても、急度相屆申候――。
[#ここで字下げ終わり]
 云々と、以下まだ數行つづいてゐる。
 これでみると、ポートマンは榮之助はもちろん、昌造とも個人的には相許した仲だといふことがわかつて、びつくりさせられる。
 ペルリ側通譯官として活動したポートマンが榮之助へ宛てた書翰はこの他にもあつて、たとへば徳富蘇峰氏の「近世日本國民史卷三十二」にも採録されてゐる。それは四月十六日付で、ペルリ一行の箱館行以前、日本品の賣買について當局の緩和方を懇請したものであるが、しかし七月二十九日付で堀達之助、志筑辰一郎連署で飜譯されてゐるこの書翰は、文章が示すとほり至つて私的であつた。アメリカ使節一行は、日本退帆後、七月十一日琉球那覇着、同十九日に那覇出帆、アメリカ東印度艦隊根據地の上海から香港を經て、カープホーレルと譯されたケープトーンつまり喜望峰を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて本國に歸つた。この手紙に琉球のことも香港のことも書いてないのは、先方の政治的意圖に制限されてゐるものだらうと察せられるが、文中にあるごとく、「サウタンポン船持越候石炭積請」といふのが、べつの記録に北海道室蘭から石炭を積んできて出發直前に補給したといふ事實があるから、この手紙は下田出發の直前に出されたものと推察することが出來る。六月二十八日の下田退帆だから、飜譯出來るまで一ヶ月餘を費してゐることになるので、この私的な一書翰の取扱についても、いろいろと當時の事情を推察できる氣がする。
 榮之助が自分宛の手紙を他人によつて飜譯される以前に讀んだかどうか? 別送の「状紙」が榮之助の手に渡つたかどうか? また榮之助がポートマン書面のごとく昌造へ「傳聲」したかどうか? ましてや「状紙」が昌造にもわけられたかどうか? 私にはまるでわからない。「状紙」とは歐文を書くのに適當な西洋便箋のことにちがひなく、榮之助が蘭語のほか英佛語にも長じてゐたことは前に述べた通り、また昌造も祖父庄左衞門以來、長崎通詞中で英語の家柄であつたから、多少の程は知らず、出來たにちがひない。
 しかし恐らくこの書翰は公文として公儀に止めおかれたらうし、榮之助も昌造も、その「状紙」によつてポートマンと書翰の往復はしなかつたであらう。條約は成立したが、まだまだそんな空氣でなかつたことは前にみたとほりだ。「――兼て御約諾致し置候通、追々御安否御書送被下候」云々も、當時の外交事情のうちで置かれた通詞らの位置といふものを考へれば、どれくらゐ表裏ある「御約諾」だつたかも知れぬ。しかしまたそれにも拘らず「猶私よりも評判記且御入用にも候はば――失念仕間敷候」云々のごときは、敵とすれば大敵である「墨夷」を知るためにも、こちら側で是非と欲した感情が、うかがはれるやうである。
 殊に文中卒然としてでてくる「本木昌造樣へも御遣し被下度、且御同人之御動靜直書にて承知致し度」云々は、何かしら、もつと苛烈なものが感じられるではないか。それは單に、數ヶ月の接觸のうちで育まれた親しみだけとはちがふ。數ある通詞のうちで、昌造だけがポートマンにこのやうな印象なり、注目なり、親しみなりを與へてゐるといふことは、長崎通詞一般とはちがつた何かが、たぶんはヨーロツパ文明のどの方面へかのズバぬけた理解と、探求のはげしさがあつたのだらうと推察できる。

      三

「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つて心を痛めねばならなかつた。「――長門下關え着――一昨日より浦賀え異國船渡來の説、いろいろと申――さる島へかかりたるはアメリカ船にてペルリの黨なるべし、江戸にてはいかにやと昨日は少もねられ不申候」。川路の日記で考へると、その長崎出發直前に榮之助は挨拶にきてゐるのであるから、前記一月末日に江戸參着といふ「村垣日記」と照合すれば、榮之助たち長崎通詞は十日間くらゐの早駕籠で筒井、川路の行列を追ひぬいたか、特別な便船で海上を江戸へむかつたかといふことになるが、恐らく確實性のある前者によつただらうと思はれる。
 とにかく當時でも江戸のニユースが下關へんまで十數日でつたはつてゐることがわかるが、海防係川路の惱みは大きかつたにちがひない。林大學も老中宛のある書翰で「墨夷」と「魯戎」は相はからつて、魯戎が長崎でネバつてゐるうちに一方墨夷に先乘りさせる魂膽だ、といふ意味を述べてゐるが、半年も經たぬうちに再來したのは、まさしく不意打の感があつたであらう。また前年渡來のときの態度からして、なかなか「ぶらかし」なども容易でないと考へられたらうし、留守中の幕閣評議
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