ころなく澳門へ歸航したのである。ある史家はモリソン號が通商に野心なく、長崎港にはいつてきたならば問題はなかつた筈だと述べてゐる。勿論それにちがひはないが、禁制の江戸灣にはいつてきた迂濶さには、和蘭商館の妨害を忌避するばかりでなしに六十五噸のブラザース號がのこのこやつてきたのと同樣な、自己の文化に確信をもつところからくる迂濶さといつた空氣があつたのではないかと私は思ふ。十九世紀も半ばとなれば、ヨーロツパ文明も侵略と植民を足場にして印度、支那沿岸に及んだ時期であつた。船の仕立主が一會社であり、乘組員が學者及び技術者に限られてゐたことも特色があるし、表面的にもしろ、こんな目的をもつて西洋から訪れた船は前例のないことであつた。
老中筆頭水野越前守は翌年長崎奉行を通じて和蘭商館長からの報告によつてモリソン號の目的を知り、「將來同一理由を以て、外國船舶の江戸灣口に接近することあらば、其處置を如何にすべきや」と評定所へ諮問したといふ。漂民護送の船が訪れたことは、スパンベルグ以來、決してめづらしいことではないから、從つて水野の諮問には自から「江戸灣」とモリソン號の「平和的」な目的に對して心を痛めたのではなからうか? そして祕密に諮問されたこの事實が評定所内部から田原藩家老渡邊登へ洩れた。以下渡邊崋山は「愼機論」を書き高野長英は「夢物語」を著はし、ひいて蠻社遭厄事件となつたことは周知の通りである。つまりモリソン號事件への世評は意外の反響をよび、崋山が自殺した翌年「打拂改正令」は出されたが、それによつてもまだ幕閣の苦心は柔らげられなかつたのである。
開國是か非か? イギリスを先頭とする諸國の勢力は東漸して支那大陸に及び、勢ひは明日にも日本海岸に及ばんとしてゐる。しかも自主的に開國するには國内準備が遲れてゐるし、殊に家光以來の鎖國傳統は、牢固たるものがあつた。そしてモリソン號を追ひ返してわづか六年、弘化元年六月には、和蘭の軍艦「パレムバン」が、日本ではじめてみる蒸汽軍艦が長崎にあらはれたのであつた。
「パレムバン」は、和蘭國王の「開國勸告」の書翰を捧持してゐた。和蘭が開國を勸告する眞意には、もはや彼のヨーロツパにおける國際的勢力が日本を一人己れの顧客として他の諸國と楯つくだけのものを失ひ、それよりは時運に基いて開國を勸め、さうした交誼によつて從來のやうに特惠國ではないまでも、有利の位置を占めようといふ意志もふくまれてゐただらう。しかし蒸汽軍艦「パレムバン」は長崎碇泊五ヶ月の後、何ら得るところなく退散しなければならなかつた。江戸から到着した「諭書」はつまり、「開國勸告など無用にねがひたい。從來どほり通商は貴國以外とはしない方針であつて、また貴國との通商も通商ではあつても國交ではない點、誤解なきやうねがひたい」といふのであつた。
それはまことに取りつく島もないものであつた。「パレムバン」はやむなく國王よりの贈物を長崎出島に遺留して退去したが、當時の幕閣がこの囘答をするまでの成行は、それ自身そんなに簡單ではなかつたやうである。徳富蘇峰氏は「吉田松陰」のうちで、このときの事情を次のやうに述べてゐる。「――むしろ他より逼られて開國するよりも、我より進んで慶長、元和の規模に復り、内は既に潰敗したる士氣を鼓舞し、外は進取の長計を取らん」と水野閣老は欲した。それで水野は將軍家慶の御前において閣議をひらき、その説を主張したが、つひに家慶の容れるところとならず、水野は激して「――既に斯く鎖國と決する上は、和の一字は、永劫未來御用部屋に封禁して、再び口外する勿れ、滿座の方々も果して其の覺悟ある乎」と絶叫したので、次席閣老で、家慶將軍の最も信頼厚かつた阿部伊勢守も、雙眼に涙をうかべ、兩掌を膝に支へながら、「委細承知仕りぬ」とこたへたといふ。――
それはまことに意味ふかい劇的一場面である。天保から安政へかけて江戸末期を代表する二名宰相、水野越前と阿部伊勢のこの言葉尠い問答のうちに、複雜多難な時代の辛苦が象徴されてゐるやうだ。「パレムバン」の來航は、いはばスパンベルグの來航以來、異國船渡來史第一期の大詰であると私は思ふ。しかも第二期はすぐはじまつて、よせてくる波は益々大きく激しくなつてきたが、このとき、弘化元年十月蒸汽軍艦渡來のとき、既にわが昌造は二十一歳で「小通詞見習」であつた。その職掌柄と、幼少から家藏の蘭書とで鍛へられ「少年時、既に世界的活眼」をひらいてゐたといふところの青年昌造は、どんな考へを抱いてゐたであらう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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活字と船
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一
さてこのやうに逼迫した對外空氣のうちにあつて、昌造が近代活字を創造した事蹟は、彼の二十五歳のときにはじまつた。幕府への開國勸告使節和蘭の軍艦「パレムバン」が追ひ返されてから五年めで、「長崎通詞本木昌造及び北村此助、品川藤兵衞、楢林定一郎四人相議し、鉛製活字版を和蘭より購入」と、洋學年表に誌されてゐる。「――楢林家記に、銀六貫四百目、蘭書植字判一式、右四人名前にて借請――嘉永元申十二月廿九日御用方へ相納る」といふ附記もある。
銀六貫四百目はわかつても、活字の數量など不明だから、舶來活字の當時の値段はわかりやうがない。活字の種類は現在殘つてゐる「和蘭文典セインタキシス」などからみて大小二種、字形はイタリツクにパイカの二種だつたらうくらゐのことがわかるが、「植字判一式」といふのも内容が明らかでない。今日の言葉でいへば「植字判一式」といふからには印刷機及び印刷機附屬品をふくまずに、つまり活字製版器具だけの意味であるが、この事蹟を「印刷文明史」に據つてみると曖昧である。明記はないが、このとき昌造ら購入の「植字判一式」だけで、それより七年後、幕府の命で長崎奉行所が印刷所を設置したごとくであるからである。
しかし「植字判一式」なるもののうちに印刷機もふくまつてゐたかどうかの詮議は、さほど重要ではない。七年のうちには、幕府は年々はいつてくる和蘭船へ印刷機だけ追加註文も出來たらうし、出島商館には印刷機一臺くらゐは存在したか知れぬから、借入することも出來る。とにかく一日本人の創意によつて近代鉛活字を購入したことと、幕府が印刷所をつくる三四年前に、その購入活字をヒントにして日本文字の「流し込み活字」をつくつたこと、その日本文字の活字によつて「蘭話通辯」一册が印刷されたといふことである。
大和法隆寺の陀羅尼經以來、木版、銅版(陀羅尼經原版は銅版とも謂はれてゐるが)、銅や木の彫刻活字といふ日本の歴史で、嘉永四年の「流し込み鉛活字」はまつたく紀元を劃するほどの魁けであつた。このとき、四人のうち、誰が買入主唱者であつたかも明らかでないが、大槻如電は、「昌造――蘭書を讀み、其の文字の鮮明にして印書術の巧妙なるに感服し、活版印刷の業を起さんとし、同志を募り、公然たる手續を以て蘭字活版を購ひ入れしなり」と書いてゐる。そして購入以來、數年を費して、「流し込み活字」をつくり、「蘭話通辯」を印刷したのは四人でなく、一人昌造だけであつたことも、もちろん疑ふ餘地がない。
また三谷幸吉氏は「本木、平野詳傳」のうちに、昌造が蘭字活字買入の動機を誌して、彼はあるとき和蘭人から和蘭の活字發明者フラウレンス・ヤンコ・コステルの傳記をもらつて讀んだ事實があると誌してゐる。この三谷氏の説がホンの云ひ傳へであるか、確實な資料にもとづいたものであるか、私はそれを判斷する力を持たない。しかしそれがほんの長崎での傳説であつたとしても、甚だ信じ得る事柄ではある。和蘭人フラウレンス・ヤンコ・コステルは、ドイツのグウテンベルグに先だつ約十五年、西暦一四四〇年頃に、鉛活字を創造した世界最初の人だと、和蘭人が海外に誇る人であつたから、當時の日本がヨーロツパぢゆうで唯一の通商國とした和蘭から、通詞といふ職で生來科學に興味をもつ昌造のやうな人間に、コステルの名が傳へられたことは至つて自然であらう。
しかも次のやうな、コステルと昌造の各々がもつ二つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、以上の關係を明らかにするやうで面白い。あるとき、コステルは庭先に落ちてゐる木片をひろつて、手すさびに自分の頭字を浮彫りにしたが、捨ててしまふのも惜しくて、紙にくるんで室の隅に抛つておいた。それからずつとのち、何氣なく手にふれたその紙包をひろげてみたら、木片の文字がハツキリと紙に印刷されてゐるので、非常にびつくりしたといふ話。――
いま一つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、昌造の事蹟のうち今日も有名な語りぐさであるが、あるとき昌造は、購入した蘭活字の少しばかりを鍋で溶かすと、腰の刀をはづして目貫の象嵌にそれを流し込んでみた。やがて鉛が冷却するのを待つて、裏がへしてみると、目貫の象嵌は凹型になつてハツキリと鉛に轉刻されてゐるので、昌造は大聲を發して家人をよんだといふ話――である。
この二つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、東西を距ててどつかに共通するものがあるばかりでなく、後者は前者にくらべて、もつと意識的であることがわかる。コステルの場合は、偶然な木活字への端緒であるが、昌造の場合は、流し込み活字への豫期がある。しかも後者の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、前者の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話に影響されてゐるやうなふしが感じられる。
しかしこの種の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話といふものは、科學精神のある純粹さが、生活と凝結しあつて、偶然な事柄を形づくつたとき、一つの藝術的な普遍さと値打をもつて傳説となるものであるが、それが必ずしもコステルなり昌造なりの、發明の實際を説明してゐるわけではあるまい。和蘭にも、コステル以前に木活字はあつた。しかも、コステルがつくつたといふ確かな鉛活字は、今日一本も殘つてゐない。印刷した書物にもコステルのそれと判斷すべきものがないので、世界の印刷歴史家たちの間では、やはりグウテンベルグに、その榮冠を授けてゐるのだと謂はれるが、しかし十五世紀の始めに出來た和蘭の古書に活字印刷の部分があるといふ事實や、コステルの工場から活字を盜んで逃げた職工が、グウテンベルグの生地ドイツ、マインツに住んだといふ傳説や、グウテンベルグの發明後、近代印刷術が全歐洲を席捲していつた徑路のうちでも、和蘭が別系統であるなどの事實があつて、ヤンコ・コステルは、或は架空の人物かも知れないのに、五世紀後の今日もまだ殺すことの出來ない人物である。今日の印刷歴史家たちは、ヤンコ・コステルといふ人物が和蘭人の創作にちがひないと承知してゐる。しかも和蘭印刷界にのこる幾つかの事實、記録にものこらないあれやこれやが、それをささへて生かしてゐるのであらう。しかもそのコステル傳記が、これは「創作」でない昌造に影響を與へたばかりでなく、東洋日本の一角に近代活字が渡來する始めであつた。
私たちはそれが嘉永の元年で、西暦の一八四八年だといふことを記憶しておかう。そしてこの記憶を前提として、西洋印刷の歴史をさかのぼる四世紀、グウテンベルグの發明が一四五五年で、その以前の西洋の木活字時代といふものが、わづか二三十年しかないといふことを知るだらう。その木活字の創造者はイタリーのカスタルヂーであつた。カスタルヂーは土耳古のある政府につかへて、書寫官であつたが、あるときマルコ・ポーロの支那土産のうちから東洋の木版書物をめつけて、それをヒントに木活字を發明したのだといふ。それが一四二六年だ。つまりグウテンベルグの一四五五年までに二十九年しかない。
これは非常におどろくべきことである。日本では陀羅尼經以來、木版ないし銅版の歴史は千餘年、木活字の歴史は徳川期以來二百
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