餘年、昌造時代ももちろんさうであつた。支那や朝鮮となると木版歴史などもつと古い。それが西洋では木活字時代が二十九年でしかなかつた。そしてマルコ・ポーロの支那土産が木版であることを知つておどろいたカスタルヂーは、木版はつくらずにいきなり木活字をつくつた。これも非常におどろくべきことではないか。ヨーロツパの活字は二十六であつた。木版にするより木活字にした方がはるかに便利だつたのだ。
 私達はこの事實を、日本の太閤秀吉の朝鮮土産の銅活字にヒントを得ておこつた木活字が間もなくおとろへて、再び木版にかはつた歴史と思ひあはせてみよう。日本では、徳川も中期になると、出版物は旺んになり、部數も増大したが、さうなると木活字よりも木版の方が却つて便利であつた。第一には木版だと再版が出來る。紙型《ステロ》術のなかつた當時では、木活字は再版のたびに新組みしなくてはならぬ。松平樂翁が「海國兵談」の版木を押收したのは、この事情を物語つてゐるではないか。第二に木版の方がはるかに容易に、しかも美しく印刷できる。ばれん[#「ばれん」に傍点]でこする印刷術は、木活字の部分的な凹凸には不向きである。第三に字劃の複雜な日本文字は磨滅しやすく、しかも萬をはるかに超える文字の種類は、新組のたびに木版を彫るとあまり變らぬほど、澤山新調しなければならなかつたし、新古の木活字は高低がくるひやすかつたにちがひない。つまり、複雜な日本の文字は、逆に木版の世界へ引戻したが、しかし支那の木版書物を見たイタリー人は、いきなり木活字をつくつてしまつた。そしてカスタルヂーが木活字をつくつたやうに、それより二十九年後のドイツ人は、いきなり鉛ボデイの「流し込み活字」をつくつてしまつた。彼等のアルハベツトは二十六である。
 ヨーロツパの印刷文明は、支那文明の影響であつた。紙の作り方もヨーロツパに攻めこんだ元の兵隊が傳授したものだ。從つてヨーロツパの古い書物はみな支那式だといふ。私はまだ見たことはないけれど、片面印刷も袋とぢといふ製本もインクが墨汁であることも、みんなその證據だと謂はれる。その支那文化の種子を蒔いたのがポーロであることは周知である。この大旅行家が歸國後※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニスの艦隊に加はつてゼノアと戰ひ、捕虜となつて獄中で「東方見聞録」を書かされたことも有名な話である。「印刷文明史」は當時を書いて「伊太利は一時ポーロの書物をもつて埋めらるるが如き流行」と形容してゐるが、十三世紀末の當時は寫本だからたかが知れてゐる。「東方見聞録」がヨーロツパぢゆうを席捲して「日本は大洋の東方にある島國にして――黄金は無盡藏なり」といふポーロの法螺が西半球の人間たちを昂奮せしめたのは、それより一世紀半ものち、カスタルヂーの木活字、コステルやグウテンベルグの鉛の活字が出來、「東方見聞録」が活版書物になつて以後、一四七、八〇年頃からのことである。
 考へてみれば、東洋の木版は西洋にいつて金になり、五世紀めに日本へもどつてきたわけであつた。そして木から金になつた理由の第一は、ヨーロツパの文字が簡單だからにちがひない。グウテンベルグはマインツの貴族で、指輪をあつかひ鏡を磨く商人だつた。指輪の彫刻や鑄型による流しこみは、この時代既に發達してゐたのだから、彼のヒントはそこにあるだらうと、今日の印刷歴史家たちは判斷してゐる。
 西洋でも、電胎法による近代活字の字母製造は十九世紀にはいつてからだ。電氣分解法、いはゆる「フアラデーの法則」が確立されなければ出來ない藝當である。したがつてグウテンベルグ以來四世紀、「流し込み法」による活字製法は、つまりアルハベツトが二十六だといふこと、漢字のやうに字畫が複雜でないことが原因の第一だといふことになる。したがつて、たとへば慶長年間に、「きりしたん活字」がそのまま長崎にとどまつたとしても、どれくらゐ發達しただらう?
 私は思ふのだが、同じ和蘭からレムブラントなどの銅版術が、司馬江漢を通じて渡來したのは天明三年だつた。一七八三年で、昌造の「植字判一式」購入に先だつ六十年餘である。そして日本の銅版術は江漢以來、亞歐堂田善などがでて、すくすくと成長したが、昌造らの「流し込み活字」は、彼の苦心にもかかはらず、なほ二十年餘を經なければならなかつた。思へば、西洋印刷術の渡來は、遲過ぎるやうな、また早過ぎるやうなものであつた。

      二

 昌造の、最初の「流し込み活字」は「植字判一式」購入より三年後の嘉永四年に一應できた。そして、その「流し込み活字」の日本文字と、輸入の蘭活字とで「蘭話通辯」が印刷されたのだと謂はれてゐる。
「流し込み活字」の製法は、昌造の場合も、ヤンコ・コステルなり、グウテンベルグなりの「手鑄込み器」と同じ方式を逐つたものだと想像できる。つまり、最初ある金屬に凸型に彫刻して種字(パンチ、押字器などとも謂ふ)を作り、それを他の金屬に打ち込んで、凹型の字母を作り、その字母に鉛を流しこんで再び凸型の活字を得るといふやり方であるが、字劃が複雜だつたり、技術が貧困なために、種字を省略して、いきなり凹型の字母を彫刻して、流し込み活字を得ようとした形跡が見える。三谷氏の「詳傳」によれば、大體つぎのやうに説明してある。――二つに割れる抱き合せの鑄型で、中央に活字の大きさだけの穴があいてゐる。鑄型の底には横にねかした凹型、つまり雌型の字母があつて、柄杓で溶かした鉛をすくつて流し込み、冷却を待つて、抱き合せの鑄型を割つてとりだし、活字の底部を鉋で削つて、一定のたかさにそろへる――といふのである。これだけの操作は大してむづかしいことではないが、いつたい字母なるものはどんな金屬であつたらうか。專門家である三谷氏の説明も、このへんは明瞭でない。最初雌型の木活字を字母にしたといふやうに誌してあるけれど、黄楊でも櫻でも、鉛の高温には堪へられぬし、さきに木村嘉平について私らはその失敗を知つてゐるところだ。三谷氏は別の著書「本邦活版開拓者の苦心」のうちで、このとき昌造は水牛の角に彫刻したものを用ひたらうとも書いてゐるが、恐らくこれが眞實に近いであらう。今日帝室博物館に所藏される昌造作の字母は鋼鐵に彫刻したものであるが、それはこのときより數年後、安政年間の作である。長崎の諏訪神社に傳へられるところの「流し込み鑄型」も嘉永年間のものではないと、專門家たちには判斷されてゐて、いづれにしろ、昌造が嘉永年間に用ひた「流し込み活字」の字母のボデイが何であつたかは明らかでない。
 およそ人類科學發展の歴史は、金屬の發見と、その性能の理解にあつたと謂はれる。伊豆の代官江川太郎左衞門が韮山に反射爐をきづいて、攝氏千三百度以上の熱を要する鐵の熔解を試みたのが嘉永三年のことである。古來刀劒類の鐵は、鞴の力で鍛へられたけれど、まだ論理的には充分理解されてゐたわけでない。銅の「吹きわけ法」などもごく自然發生的であつたのだし、鉛活字に必要なアンチモンなども、まだ日本のどつかの山にかくれたままの時代であつた。つまり當時の状態では多くの金屬が未開にあつたし、加へてそれらの金屬は封建制度で流通も圓滑を缺く。昌造など蘭書の知識で若干の理解はあつても、手がとどかぬ憾みがあつたらうし、いま一つ加へて江戸の嘉平が白晝灯をともした室で、人目を忍んで研究せねばならなかつたやうな事情は、通詞の場合若干の役得はあつても、決してゆるがせだつたわけでもあるまい。
 とにかく、今日から想像すれば異常に困難な空氣のなかで、何程かの活字がつくられ、「蘭話通辯」の幾册かが印刷され、「蘭話通辯」は和蘭本國にもおくられ、數年後昌造は日本文字の種書を和蘭におくる動機ともなつたとは印刷歴史家の傳へるところであるが、ところで昌造が最初につくつた日本文字は何であつたらうか? 當時の活字は殘つてをらず、「蘭話通辯」もいまは見ることが出來ない。もちろん圖書館にもなく、長崎にすら現存しないといふ。したがつていま私がたよりにする唯一のものは、三谷氏が「詳傳」のうちで「蘭話通辯」の所在についてたしかめ得た、次のやうな、嘗てそれを見た人々の答へだけである。
 古賀十二郎氏
 ――「蘭話通辯」とは本木昌造が、和蘭から取寄せた活字を左の方にならべ、自分の造つた片假名文字を右に並べて、蘭語を譯したもので、紙は仙花を用ひ、表紙は黒い紙であつたか、布であつたかは判然と記憶にないが、兎に角黒い表紙で、百頁位な、美濃四ツ折の誠に杜撰な本である。
 福島惠次郎氏(長崎共益館書店主)
 ――「蘭話通辯」は四五年前、めづらしく二册手に入りましたが、何人かに賣りました。――本の形は黒表紙で、中身は英語の活字と日本の片假名活字とで印刷した百頁程のうすい、美濃四ツ折くらゐな本でした。
 小西清七郎氏(東京菊坂町書店主)
 ――「蘭話通辯」は二三年前に店にありましたが、今はありません。確かに二圓六十錢で賣つたと記憶してゐます。本の形は美濃四ツ折で、粗末な活字と片假名の混合した内容でした。
 早稻田米次郎氏(長崎古道具店主)
 ――「蘭話通辯」は黒い表紙で、今でいふ四六判ですな。中身は昔の帳面につかふ紙で、外國の字と日本のきたない片假名字で、粗末な本です。四五年前に一册誰かに賣りました。(――其他略)
 三谷氏のこの調査は昭和七年九月である。ちやうど十年前のことだから、三谷氏の文章を信ずる限り、以上の人々の多くが現存するだらう。そして更に以上の人々の言を信ずる限り、この日本で一ばん最初に「流し込み活字」でつくられた貴重な書物は、まだ日本のどこかに現存してゐるのであらう。「黒い表紙」の「美濃四ツ折」の、きたない本は、日本のどつかで蟲に喰はれつつ存在してゐるのだらう。
 そして以上の人々の言葉が一致するところにみれば、昌造が最初につくつた活字は「片假名」だといふことである。木村嘉平は島津齊彬の命によつて、最初に二十六の外國文字を作つた。昌造は自分の創意で五十音片假名を作つた。「蘭話通辯」の印刷が何によつたかは活字以上に明らかでないが、のち長崎奉行所が印刷所を設けたとき「プレスによる印刷法長崎に擴まる」とあるから、このとき二十八歳の青年昌造は輸入のアルハベツトに片假名の活字をならべて、ひとりでばれん[#「ばれん」に傍点]でこすつたのであらう。そしてひとりで紙を切つたり、製本したりして、ひそかに知己の人々に「黒い表紙」の本をくばつたのだらう。
「蘭話通辯」はやや傳説めいてさへゐる。彼の片假名活字は「きたない」ものだつた。しかし昌造だつて科學未發達のその時代に、日本活字を創造してゆくどんな手がかりがあつたらう? 歴史といふものに奇蹟はないといふ。グウテンベルグの場合、活字考案に指輪があつたやうに、印刷機の考案にはドイツ、ライン地方の葡萄酒釀造につかふ壓搾機がヒントとなつたもので、今日手引印刷機を「プレス」と稱ぶのも、そこに發してゐると謂はれる。萬をもつて數へる漢字の字母は、そして畫の複雜な漢字體は、「流し込み」技術の範圍では容易に克服し難かつたらう。嘗て「植字判一式」購入當時の同志、北村此助も、品川藤兵衞も、楢林定一郎も、いつかこの活字の歴史からは消えていつた。
 しかし「蘭話通辯」から三年めの安政二年になつて、昌造らの購入活字は、それ自身として一つの記録を編んだわけであつた。同年六月、長崎奉行荒尾岩見守は老中阿部伊勢守へ「阿蘭陀活字版蘭書摺立方建白書」といふものを提出した。「一、近年洋書の需要著しきも、供給不充分なる事。二、阿蘭陀通詞は別して家學に出精熱心に研究するも、遺憾ながら蘭書拂底のため修行十分に屆き兼ねる事。三、先年紅毛人の持來りし活字版を、先勤長崎奉行の許可を得て、蘭通詞共引受所持せるを、このたび會所銀をもつて買上げ、此節奉行所に於て摺立方試み、長崎會所に於て一般志願者へ賣渡せば世上便利なる事」等といふのが建白書の内容である。
「紅毛人持來りし活字版」云々は、昌造ら註文の活字版のことである。この文章でみれば、例の「植字判一式」は偶然渡來したものを昌造らが引受け買取つたごとくで
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