ウニンとフオストフとは關係ないといふ釋明書を携へたリコルヅ少佐を伴つて、國後島へ歸還した。そこでオホツク長官代理は日本の要求に應じて、フオストフ事件の謝罪始末書を提出し、ガロウニン以下は釋放、レザノフ以來の紛擾が解決したわけである。
 嘉兵衞の努力は日露國交の危機を救ひ、あはせて日本人の面目を海外に顯揚したのであるが、レザノフは死んでもロシヤ側の日本の門戸をたたく熱意はかはらなかつた。リコルヅのオホツク長官代理を任命されたのは、ガロウニンの身柄を釋放するに必要でもあつたが、同時に「通商」と「國境協定」のための談判を開始する資格の必要からでもあつたといふ。リコルヅと松前奉行服部備後守との會見によつてロシヤ側の希望は江戸へ申送られ、囘答は翌文化十一年エトロフにおいてなすべきことが約された。幕閣の囘答は嘗て長崎においてレザノフに示されたと同樣であつたが、しかし翌年、日、露、蘭の三國語に認められた文書を松前藩高橋三平が携行、エトロフ、シヤナに赴くと、ロシヤの船は會見の場所に來なかつたのである。するとそれより四年後文政元年になつて同藩飯田五郎作なる者が、エトロフ海岸で偶然拾つた筐のなかにロシヤ官憲の文書がはいつてゐて、約定のとほり文化十一年同島北部に來着したけれど、日本の役人をみることが出來ないから、やむなくオホツクに歸航するといふ意味が認めてあつたといふ。
 歴史はときに蒼茫としてみえる。時間と空間をこえて、あるときは近くなり、また遠くなる。ガロウニン事件、嘉兵衞事件が終つて、またプーチヤチン提督が四隻の軍艦を率ゐて長崎沖に出現するまで、約半世紀が經つ。しかも日露國境問題も未解決のままであり、ロシヤは北邊の門戸をひらくことが出來なかつたが、この因縁は絶えたわけでなく、半世紀後、本木昌造が「長崎談判」「下田談判」に通詞として活動する運命も、かうした因縁につながつてゐるわけであつた。
 北邊を襲つた波は、それで一旦かへしていつたが、波のあとに殘つたものに「ロシヤ語」があり「種痘法」があつた。ロシヤ語はこのとき以來幕府天文方において一つの座席をもつやうになつたし、「種痘法」は一部ではあつたが日本人の知識のうちに加へられた。馬場佐十郎がガロウニンから口授されたもので、嘉永二年の痘苗の渡來に先だつ四十年である。しかもこの種痘法は何故實施されず、正確には安政五年に「種痘館」が出來るまで半世紀を待たねばならなかつたであらうか。その事情はガロウニンが退去してから八年め、文政元年に江戸灣に突如あらはれた英國商船「ブラザース號」船長ゴルドンから、種痘具一式を贈られた馬場佐十郎の答にみることができる。彼の答を要約すると、「結構なる品、有難くは存ずるが、殘念ながら受領できない。それは國法の禁止するところであつて、種痘法は自分が嘗てロシヤ人ガロウニンより口授され、國内にも一應知られてゐるけれど、上役人の許可がないので未だにその效力を實驗することが出來ないでゐる状態だ」と述べてゐる。安政五年に種痘法が實施されたのは「西洋醫學所」の力のみではない。云ひ換へればここにも活字と同じ運命があつたのだ。
 さて北方に對する幕府の危惧が去らぬうち、南方では既に「フエートン號事件」が起つてゐた。文化五年でフオストフが北邊を襲撃した翌年である。「海賊」英國はこのとき既に印度洋及び南太平洋において王者の位置を築きつつあつた。一七六三年、わが明和年間にはフランスとの植民競爭にうちかつて印度を奪ひ、一八一一年、わが文化八年には和蘭艦隊を打倒して和蘭東印度會社の根據地ジヤワを陷しいれてゐた。一八一九年、わが文政二年には海峽植民地シンガポールが建設され、一八四三年、わが天保十三年には阿片戰爭を通じて香港島に砲臺が築かれた。「フエートン號事件」はつまり和蘭艦隊打倒後でジヤワ、バタビヤの和蘭政府の實權を掌握、すすんで出先日本長崎の同商館を占領しようとして長崎沖に出現したのである。もちろん目的は商館の占領よりも、日本との通商權利を頬被り的に引繼ぐことにあつて、十九歳の青年艦長ペリウをのせた武裝船が、何故僞りの和蘭國旗をかかげて入港してきたかも、自から明らかだらう。この事件におけるヅーフの策謀、奉行松平圖書をはじめ佐賀藩士數名の引責自害その他、昌造の祖父庄左衞門らの活動などは前に述べた。この事件は、北方のそれよりも影響するところが大きく、幕府は後事に備へるため庄左衞門らに英語の習得を命じたが、日本における英語の歴史はこのときから起原するといふ。
 しかも南からよせてくる波は、北のそれよりも急速ではげしかつた。當時の幕閣には薩摩、琉球より南の方についてどれほどの理解が養はれてゐただらうか。新井白石以來、海外の政策や文物に注意する傳統が失はれたとも思へないが、尠くとも表面は長崎奉行まかせであつて、また長崎奉行の目付ともいふべき代々の和蘭甲比丹から具申する海外ニユースをたよりにしてゐた程度であつたと思はれる。そのことはたとへば文化年度以來、ヨーロツパにおける國際關係が複雜になつて、和蘭船として同國國旗を掲げて入港してくる船々には、アメリカ船、デンマーク船、ロシヤ船、ブレーメン船等があつても、實際にこれを知つてゐたのは長崎通詞のみであつたといふことにもあらはれてゐる。
 これらは和蘭傭船であつた。しかし傭船ではあつたが、これらの異國船はつねに和蘭國旗を放棄して、單獨の日本通商をしようといふ謀反心を抱いてゐたのである。殊に新興のアメリカ船にそれがつよくて、アメリカ船「エリザ號」などは二度めは和蘭國旗を掲げず入港しようとして追ひ返され、三度びそれを企てて三度び追放され、つひにフイリツピン沖合で難破、再び起てなかつたといふ。そしてこれは和蘭傭船ではないが、文政元年五月、異國船が突如江戸灣に出現して江戸の役人たちをおどろかせた。それはイギリス商船「ブラザース號」で、しかも六十五噸の小帆船であつた。恐らくお膝元江戸灣に乘りこんだ最初の船であらうが、まつたく「突拍子もない船」である。本國の政治的意圖ももたない私船で、長崎を無視してのこのこと江戸へやつてきたこの船は、日本の許可を得て貿易をしたいと臆面もなく申立てたところに、異國船渡來の歴史にみて劃時代的な意味をもつものと私は考へる。
 もちろん「ブラザース號」は追ひ返された。そしてこの六十五噸の小帆船の處置について老中をはじめとする役々の動きの記録が殘されたが、ゴルドン船長の方でもおどろいて早々に引揚げた。しかしこのとき浦賀に碇泊したわづか一晝夜のうちに「雜貨類の交易に熱心」な附近の百姓町人たちは「ブラザース號」の甲板に充滿し、船の周圍をとりまく者を加へれば二千を超えたと記録してある。
「突拍子もない船」はしだいにふえた。文政年間から天保年間へかけてアメリカ、イギリスの捕鯨船で日本海岸に漂着するものだけでも「數知れず」であつた。前記したやうに文化の末から文政へかけては、アメリカ漁夫たちが大西洋から太平洋に河岸をかへた時期である。しかも未開の太平洋に鯨を逐うてくるものはアメリカ漁夫のみに限らない。弘化三年になると、フランス軍艦「クレオパトラ」が長崎港外に訪れて、日本への交誼をもとめてゐる申出のうちに、「フランス捕鯨船で漂着するものあらば穩便の處置をたのむ」といふ文句もみえるから、フランスの漁夫もあつたであらう。とにかく太平洋はまだ處女であつた。文政八年、幕府は「異國船掃攘令」を出してゐるが、直接にはこの「突拍子もない船」の來着に原因してゐるのは自然だし、よほど手を燒いたにちがひない。文政五年、つまり一八二二年、どんな順を經て日本から抗議されたのか知らないが、アメリカ政府は議會において、自國の捕鯨會社に對して警告を發する決議をしたほどであつた。
 殘念ながら私はアメリカ捕鯨船漂着の記録をつぶさにしないから、イギリス捕鯨船だけに限ると、文政五年江戸灣に一隻、同六年に常陸國沖合に六、七隻、同七年同じく常陸國沖合に二隻、同年薩摩海岸に一隻、同八年南部藩沿岸に三隻、同九年上總國望陀沖に一隻、天保二年蝦夷繪鞆沖に一隻といつたぐあひである。これに立役者のアメリカ、それにフランスその他を加へたならば、日本海岸に漂着するもの毎年數件、數十件にものぼつたであらう。
 しかもこれらの船の性質上、南の長崎も北の松前も無視してゐる。長崎の目付役? 和蘭商館さへ事前に豫知できぬやうなやからである。彼らがどんな風にやつてきたか、たとへば文政六年及び七年に、常陸國沖合にあらはれた捕鯨船についてみると、六、七隻の異國船はまつたく食糧薪水に缺乏してゐて、手眞似をもつて意志を通じながら、附近の沖合にゐた水戸の漁夫たちと、ヨーロツパ雜貨と、米や煙草などと交換した。漁夫たちは親しく異國船に招待されて、珍奇な外國の風俗や品々におどろいたが、噂は忽ち漁村から町方までひろがつて、こんどは漁夫を通じて交易せんとする商人が續出した。水戸藩廳ではおどろいて商人、漁夫ら三百餘人を捕へたが、異國船はもはや食糧薪水を得たためか間もなく沖合から姿を消してしまつた。ところが翌年漂着した二隻の捕鯨船は、もはや日本の漁夫らと交易して薪水をうることが出來ないので、ボート四隻で大津濱に上陸、十六名は武裝してゐたが、水戸藩吏に捕へられた。のち取調によつて、食糧補給以外他意なきこと判明したので、釋放されたが、一時は沖合に待機してゐた本船から大砲をうちかけてくる騷ぎであつたといふ。同じ年薩摩領寶島でも、上陸してきたイギリス漁夫たちは、火酒やパン、貨幣などみせて、畑にゐる牛をもとめたが、拒絶されるとこんどはボート三隻に二十名が武裝上陸、本船から掩護砲撃下に畑の牛を掠奪せんとした。しかし薩藩吏の應戰によつて彼らは目的を達せず、一つの遺棄死體をのこして退散した。――
 つまり彼ら漂着船の目的は、自から單純であつた。彼らは、食糧薪水の補給さへすればよかつたし、それ以上にはせいぜい自國の雜貨を與へて、代りにめづらしい日本品を土産にでも出來ればよかつたのであらう。毛色眼色は異つても、言葉は通じなくても、政治的意圖をもたぬ人間同志はつねに親しみやすいものである。しかも記録にものこらない、北は蝦夷から南は琉球までの日本海岸で、そんな事柄は澤山あつたらうと想像することは困難でないから、この時代にこれらの船々が、鎖された國の人々に與へた影響は、けつして小さくなかつたにちがひない。
 そんな意味からもつづいて起つた天保八年(一八三七年)の「モリソン號事件」などは重要であつた。有名なこの事件はアメリカ、オリフアント會社重役チヤールズ・キングを主とし、日本語學者で宣教師ギユツラフ、博物學者ウエルズ・ウイリヤムズ、醫師で天文學者ピーター・パーカーらの一行であつた。「モリソン號」の眞の目的が何であつたか、直接には日本漂民で尾張の船乘岩吉、久吉、音吉、同じく肥後の庄藏、壽三郎ら數名を本國へ護送することで日本の歡心を得、間接には日本通商の下心を得んとするにあつたらうと史家たちは云つてゐる。單に漂民の護送ならば長崎で充分であるものを、避けて江戸灣にむかつたのも、和蘭商館の妨害を懸念したことが考へられるなど、理由の一つである。
 しかしいづれにしろこの船は特殊であつた。その平和的使命を明らかにするために、モリソン號の一切の武裝を解除して、パーカーは醫療器械各種、藥品等のほか天文に關する器械、圖解などを携行、ウイリヤムズはまた博物學方面の資料を準備したと謂はれる。つまりモリソン號はその頃漸く支那において基礎を強固にしてゐたオリフアント會社の通商的野心から準備されたものであつても表面は漂民の護送、同時にヨーロツパ學術の紹介と普及にあつたといふことができよう。ところでモリソン號のかうした内容については翌年になつて和蘭商館長より長崎奉行宛への報告がはいるまで幕閣は何ら知る處がなかつた。江戸灣へむかつたモリソン號は三浦郡白根沖合に差しかかるや小田原藩及び川越藩の砲火をあびて退去。再び薩摩國兒水村近くに投錨したが、ここでも砲火をあびて一發は命中、危險に瀕したので、つひに得ると
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